幸福の指輪
ぐったりと肩の力が抜ける。何もかも、考えるのが無駄な様な気がしてきた。人生とは、そう言うもの……。たしかに、そうかもしれない。いくら、抗っても無駄な事だって、世の中にはあるのだろう。なら、そう言った努力に時間を費やすのは、愚かな事なのだろうか?
「指輪……渡してくれるよなぁ?」
警部がにやけた笑みで問うてくる。ぼくは、否定も肯定もしなかった。何かを考えること自体、もうすでに億劫だ。
警部の要求通り、ぼくはポケットに手を入れると、あの指輪を盗り出す。
海辺でこれを拾ってから以後、ぼくは常にこれを持ち歩いていた。何処かに隠しておくより、自分で持っていた方が安心だと思っての行動だったのだが、今となってはそれも正しい判断だったのか分からなくなる。
件の指輪を見せると、警部は「へーぇ」と笑った。
「お前、自分で持ち歩いてたんだ」
くぐもった笑いを漏らして、警部は続ける。
「まぁ、たしかに一番信用出来るのは自分自身だもんなぁ。お前さんの判断は正しいぜ坊や。しっかしそれにしてもまぁ……やっぱしキレーな指輪だねぇ」
体勢を低くして、まじまじと指輪を見つめる警部。ライトが発する光を受けて、指輪は仄かに輝いている。
「こんな贅沢な指輪じゃ、お前さんが心を奪われるちまうのもうなづける話だなぁ」
いかにも楽しそうに一人ごちて、警部はこちらに手を伸ばす。
「さっ、そいつを渡してくれ」
警部の言葉に頷きつつ、ぼくは心の中で覚悟を決めた。
様々な事柄が、頭の中で交錯し、ぼくの感情をかき乱す。しかし、そんな中にあったって、変わらない事が一つだけあった。これだけは、決して曲げないのだと最初から決めている。中途半端に止めるくらいなら、どうしてぼくはこの道を選んだというのか。
ぼくは指輪を握った手を、警部の方へと伸ばした。
「よーし。偉いぞお前ェ―」
そう、警部が言いかけた時、ぼくは彼の手を払いのけて、思い切り両手の指を突き出した。
放り捨てられた指輪が、床の上を転がって、カラカラと音を立てる。
迷いはなかった。力を込めた、ぼくの親指は真っ直ぐに、警部の目元へと向かっていく。
まずは、視界を奪う。少しでも、隙を作り、反撃の手を尽くすのだ。
こんなところで、終わらない。こんな男なんかに、母さんの未来は奪わせない。
次の瞬間、グチュリという気持ちの悪い音が聞こえた。ぼくの両の親指が、この男の両目を潰した、確かな手応え。
さぁ、ここまでは順調だ……次の手を考える。
警部が、獣の咆哮の如き悲鳴を上げる中、ぼくは周囲に目を走らせた。何か……何かがあるはずだ。
「目……目がァ……俺の目がァ」
むちゃくちゃな喚き声を上げ、警部がぼくの体を引き離そうと、乱暴に体を振り動かす。
体を一回転させるほどの動きには、流石にたまらず、ぼくは床に放り出された。
瞬時に体制を整え、身を起こす。一瞬の間でさえ、無駄にするわけにはいかなかった。何か、策を考えないと。
「テメェ……この野郎……ゆるさねぇ」
怨めしそうに言葉を吐いて、警部が銃を握った手を持ち上げる。
それは、本能的な事なのか、それとも、実は失明に至っていなかったのか、彼の銃はまっすぐにこちらに向けられていた。しかし、やはりダメージはあるのか、手元はぐらつき、目元からは血がポタポタと零れ落ちている。
銃口は、ぼくへと狙いを定めていた。おそらく、この状況、警部は躊躇なく引き金を引くだろう。殺されかけたのだから当然だ。
こうなった以上、これはもう情け容赦なしの殺し合いである。ぼくも、全力でいかねばならない。
人間としての情など捨てて、確実にあの男を殺せる方法……。
床に視線を走らせて、ふとぼくはある物に目を止めた。
先ほど、ぼくの手から零れ落ちたキッチンナイフ……。彼はまだ、気付いていない様だけれど、それはぼくと警部との間に転がっている。
あそこまで行って、拾えれば……ぼくにも勝機はあるかもしれない。
しかし、ぼくにあそこまで行く事が出来るのだろうか?
カチリと音を立てて、警部が撃鉄を起こす。
あの弾丸に当たれば、ぼくにもはや勝ち目はない。あれをどうにかして避けなければ……。
思考を巡らせている暇はなかった。一か八かの賭けに出るしかない。
ぼくは、いつでも駆け出せるように、前かがみに姿勢を整えた。
息をふぅ……っと吸い込んで、吐き出す。
それと同時に、ぼくは伏せた。同時に響く発砲音。頭の真上を、何かが通過していく。
僅かの差で、弾丸はぼくを捉え損ねたらしい。良し……このまま、一気に距離を詰める。
ぼくは伏せた勢いそのままに、ナイフ目がけて飛び込んだ。
丁度良い具合に、持ち手に指が引っかかり、そのまま持ち上げると、ぼくは一気に警部との間合いを詰めた。
自分の体重をそのままかけて、ナイフを突出し、そのまま飛び込む。
狙うのなら、顔面か股間のどちらかだと、あらかじめ決めていた。顔面に刃を突き立てれば、おそらく攻撃を続けるどころではなくなるだろうし、かたや股間は男の急所である。
ほかの部位では、万が一にも反撃される可能性というのは否めない。出来る限り、安全かつ確実な部位を狙いたい。そう考えると、低い体勢から顔面を狙うのは、随分の確率の低い方法になりそうだった。だとするのなら……狙う場所は一つだけ。
ぼくは全体重をかけて、思い切り警部の股間にナイフを突き立てた。
グチリと音を立てて、警部のズボンに血が滲む。
力を込めると、刃はズブズブと食い込んで行った。
今度の攻撃に、警部は声にならない悲鳴を上げる。
あまりの激痛からか、警部は拳銃を取り落とし、突き刺さった刃物を抜こうと、ぼくの手に腕を伸ばして来た。
ぼくはグっと覚悟を決める。まだまだ、ここで終わらせるつもりはなかった。あと一撃、決定的な攻撃を加えてやる。
ぼくは体に力を込めると、再びナイフに全体重をかけて、思い切りナイフを引き下ろした。
グチャグチャと肉の切れる音がして、血も勢いよく噴き出す。用途が調理用だからか、最後まで綺麗に切り裂くというわけにはいかなかったが、これでも致命的な傷になるのは間違いない。
警部の手が及ぶ前に、ぼくは自分でナイフを引き抜いた。
そのため、警部の手は空を切り、再びぼくに攻撃の機会が生まれる。
今度は、切っ先を上に向けて、腰を低く、身構えた。
それから、地面を蹴って、真っ直ぐに飛び上がる。
ぼくの攻撃を止めるため、体制を低くしていたのが、奴には災いした。
ぼくの刃は綺麗に奴の鼻先に突き刺さり、それが奴への止めとなる。
いよいよ、体も限界になったのか、警部の体はビクリと振動し、そのまま硬直して、床に真っ直ぐ倒れ伏す。額に突き刺さっていたナイフが、床に倒れた際に弾かれて、床を滑る。
警部の体が立ち上がる事は二度となかった。……警部が死んだ。ぼくが殺したんだ。