幸福の指輪
挑戦的に言ったぼくの言葉を聞いて、警部は面白そうに「くはははは」と笑い始めたのである。
「ジーザス!ハッハァ……こりゃあ痛い所を突かれたねぇ」
さも面白そうに笑ってみせる警部。それはどうも、空威張りというワケでもなさそうで、逆にぼくが困惑させられる事になった。
「やっぱし、食えない坊やだぜ。オメーわよぉ」
「ハハハ」とにこやかに笑っている警部。だから、次の瞬間の彼の行動がぼくにはまったく予想出来なかったのである。
今まで人質にとっていた母さんをそのまま放すと、警部は真っ直ぐぼくの方へと向かってきた。その行動が、あまりにも予想外で、ぼくは何も考える事が出来なくなる。
にこにこ笑いながら近づいてきた警部は、ぼくの前へ来ると、そのまま拳銃を使ってぼくの顔を殴りつけてきた。
痛みと共に、鼻の部分が熱くなる。衝撃でぼくは尻餅をついた。手にしていたナイフも地面に落ちる。
「痛たた……」と鼻を抑える余裕もない。
警部はそのまま、ぼくの胸倉をつかみあげると、ぼくの顔へと、自身の顔を寄せて、口にした。
「いーねぇ坊や。ああいう反抗的な態度嫌いじゃないよ」
そう笑いながら、警部は再びぼくを殴る。
今度は素手だったから、さっきほど痛くはなかった。しかしそれでも、暴力としては十分である。
警部に視界を遮られた向こう側で、母さんが悲痛な叫びをあげるのが聞こえた。
「息子に、乱暴しないで!」
そんな母さんに対して、警部はさも面倒臭そうに返答する。
「うるせーなぁ。ちょっとすっこんでろよババア。これは俺と、坊やとの問題」
そう言いつつ、警部は尻餅をつくぼくに蹴りを入れてくる。
顔面を蹴られたから、結構痛かった。衝撃でぼくは強く体を地面に打ち付ける事となる。
痛みで体を起こせずにいると、再び警部が胸倉をつかみ、ぼくの体を起こさせた。
「なぁ、坊や。分かっただろう。難しい理屈なんて必要なしに、これが俺とお前の力関係。俺のがお前より、上。これ以上に理屈が要るかよ?」
痛みで答える事が出来ない。奴に言葉に対し、ぼくはうめき声を漏らす事しか出来なかった。
そんなぼくを見て、警部は「フン」と鼻を鳴らす。
しかし、次の瞬間、涙で滲んだ視界の中、母さんが警部に掴みかかっていくのが見えた。
「ショウを……ショウを離しなさい!」
母親という存在に強さを、この時ぼくは改めて認識した。病弱なはずの母さんを、ここまでの行動に駆り立てるのは、やはり子を守りたいという想い故の覚悟なのだろうか。
しかし、そうはいっても、華奢な母さんが力で押し任せる事もなく、すぐに母さんは床に突き倒されてしまった。
「落ち着けよおふくろさん。体弱いんだろ?無理すんな」
そんな風な事を言いつつ、警部は彼女に銃口を向ける。
「ショウ坊やよぉ。捜査令状がどうのってお前さんは偉そうに言ってたけどよぉ。そもそも俺にゃそんなのカンケーないんだよなー」
胸倉をつかんで顔を上げさせ、射る様な目で見つめながら、警部は続ける。
「たしかにさぁ、お前さんの言う通り、俺ぁ組織からの許可証は持ってないぜぇ。だけどよぉ、それは俺にとっちゃそもそもあんまり関係ねぇ話しなわけだ」
警部は母に向けていた銃口を、今度はぼくに向けて続ける。
「つまりよぉー、簡単に言っちゃうと、俺ぁ署長の弱味を握っちまってるわけ。組織のトップが俺の言いなりなら、当然その部下どもも俺に逆らうわけにはいかねぇわけだ」
なんて恐ろしい事だろうと思った。警察がこんな男に支配されてしまっているなんて……。たしかに、警察署に行った時、ぼくが霊安室へたどり着くまでの過程が、あまりにもスムーズ過ぎるなぁとは思っていた。あの時は、受付嬢と仲が良いから、すんなり通してくれたものだと思っていたけど、ぼくの思っていた以上に、この男は組織内部へと己の根を張り巡らせていたらしい。
「俺はね、何をしても許されるわけよ。殺しも女も、何もかも。実は市長よりも偉いかもしんねーなぁー」
つまり、この男は何が言いたいのだろう。ぼんやりとする頭で、ぼくは考える。自分は、人を殺しても正当化されると……そういいたいのだろうか。
押し付けられた銃口部分が、ひやりと冷たい。
「だからさぁ、大人しく指輪渡しちゃった方が早いわけよ。こうは言っても、俺だってむやみやたらに人殺しはしたくないわけだし」
そう、優しげな口調で言ってみても、その目つきは本気だった。“なるべく、避けたい事ではあるけれど、そういう状況になったら躊躇なくやるぞ”。そんな風な目つき。おそらく、この男なら本当にやるだろう。
「なぁ?分かった坊や?分かったら、大人しく俺に指輪渡してくれると嬉しいんだけどなぁ」
にこやかな笑みを浮かべていう警部。この男が、恐ろしくて仕方なかった。体中が、ガタガタと震える。しかし、だけど……この指輪だけは渡すわけにいかなかった。
「指輪はとらないでください……」
ぼくは、やっとの思いで声を絞り出す。
「母さんは、病気で……手術のためのお金が必要なんです……。その指輪だけが、ぼくらを救う希望なんです……だから、ぼくらから、望みを奪わないで……」
嗚咽を堪えることが出来なかった。ボロボロと涙が零れて、喉が震える。
哀願するしかなかった。プライドなんか、全部捨てたって構わない。母さんの命だけは、見捨てないでほしかった。
「ふーむ。なるほど。それが、お前の動機だったのか……いやぁ〜泣かせるねぇ」
そう言って、警部は憐れむ様に頭を振った。
「親を想う故の罪……良い奴じゃないか。おそらくきっと、誰も君を責められないだろうよ……しかし、それと同時に」
警部は至近距離まで顔を寄せて、耳元で囁いた。
「誰も俺を責められない」
耳元にかかる吐息が、気持ち悪い。
警部は少し顔を離すと、再び正面から向き直って来た。
「まぁ、可哀相だとは思うけどねぇ……人生そういうもんだって、諦めるしかないよ」
うんうんと、一人うなづく警部。
「オレの母ちゃんもさぁ、通り魔に襲われて死んじまったけど、だーれも助けてくれなかったぜ」
昔を思い出す様に目を細めて、警部は語った。
自分の母が殺された時、どれだけ周囲が無関心で、あまりにもあっけない死に際だったのかを。
「結局さ、そういうもんさ。自分以外は赤の他人なわけだからねぇ。そういった問題は当人たちで解決していくしかないんだけど、ほとんどの場合解決出来ないから、それはそういう運命だったんだと諦めて、何もかも受け入れるしかないよ」
そう、悟った風な口調で言う警部。もしかすると、母親が殺された時、彼の中の何かが捻じれてしまったのかもしれない。
その際の出来事、あっけなさが彼の人格形成に影響しているのは、おそらく間違いなかった。
しかし、母を失う体験をしているのなら、それを味あわんとしているぼくの気持ちも理解出来るはずだ。……いや、むしろ理解出来るからこそ、同じ苦しみを味合わせたいのか。