幸福の指輪
感情的になってぼくが叫ぶと、警部は呆れた様に「おやおや」と頭を振るった。
「聞いたかい、奥さん。お宅の坊や、ここまで来てシラを切るたぁ、とんでもない悪党だぜ」
そう、耳元で囁く様に言われて、母さんは困惑した表情を見せる。
「ショウ……が悪党?」
途端に、全てを理解した。この男が求めている物、そして彼の言わんとする所が……。
冷や汗が体中を伝った。何があっても、母さんにだけは知られたくなかった。この罪は、ぼくの胸の内だけにそっと仕舞っておきたかった……。それを今、この男は暴露しようとしている。よりにもよって母さんの前でそれを暴き、ぼくをゆすろうとしている……。
「そーだよぅ奥さん。この坊やはよぉ」
警部が残忍で、いかにも楽しそうな笑みを浮かべながら、その手の銃でぼくの方を示す。
「浜辺に打ち上げられた水死体の手から、高価な指輪をかっさらってったんだ」
警部が言った途端、母さんの目が見開かれる。
「指輪を盗んだなんて……お前……本当なの?」
震える声で、母さんが尋ねて来た。
それに対し、ぼくは何も答える事が出来ない。出来ることなら、今すぐにでも否定したかった。だけど、それは母さんに嘘をつく事になる……そんな事は出来なかった。たとえ、この場は誤魔化せたとしても、いずれはまた警部に暴かれるのだ……二度も母さんを裏切りたくはない。
何も答えを返さないぼくを見て、母さんは「ああ……神様」と嘆く。
彼女も、きっと否定してほしかったのだ。自分の息子は、絶対にそんなことはしないと、ぼくにキッパリ否定してほしかったのだ。
ごめん……母さん。謝罪の言葉すら口に出来ないのが、もどかしくて仕方ない。
「そーいうわけで、奥さん。俺はその指輪を返してもらいに来たってわけ。そこでだ……」
澄ました顔で言うと、警部はちらりとこちらに視線を向けた。
「どーも息子さん、素直には返してくれないみたいだから、お母さんの口から返す様言ってくれませんかねぇ」
言いながら、勝ち誇った笑みを浮かべる警部。……どこまでも汚い男だ。
この男のペースにすっかり巻き込まれてしまった母さんは、今にも泣き出しそうな目でぼくを睨んだ。
「ショウ……。持っているのなら、出しなさい」
母さんが言うと、警部がそこで「いやいや」とチャチャを入れる。
「奥さん、俺の話聞いてなかったのかなぁ。持っているのならなんて曖昧な言い方じゃなく、もっとキッチリ言っておくれよ」
警部が嘲る様な笑みを浮かべて、銃口を向けてくる。
「こいつ……持ってんだからさぁ」
ナイフを握る手が、ガタガタと震える。今すぐにでも、この畜生を切り殺してやりたかった。その意地汚い面で、二度と表を歩けない様にしてやりたい。
警部に促されて、ぼくを諭す母の言葉も、耳に入って来なかった。
体中が怒りで震える。このままでは、本当に警部を刺殺してしまいそうだった。
微かに残る理性で、何とか衝動を堪える。 ぼくは今直面しているこの状況について考え、何とか気分を落ち着かせる事にした。感情的になっても仕方がない。こういう時にこそ、冷静にだ。
ぼくは、警部の持つ銃にチラリと目をやる。
まず、根本的な疑問として、この男は何をしに来た?その答えは、先ほど警部自身が口にしている。彼がぼくの指輪を奪いに来た事は、もはや疑い様のない事だったが、何故に彼は一人なのか……。
この部分が、この状況を考えるのに重要な事柄だった。
どうして、指輪を盗り返すために、複数ではなく、個人でやって来たのか。
浜辺での邂逅などから、特別に思い入れがあり、一体一で事件を解決しに来た?……おそらく、この線はないだろう。この畜生フォックスに、そこまでの人情を求めるのは、お門違いも良いとこだ。
なら、必然的に彼が一人で行動するのは、組織で行動するのを避けたい理由が、何かあるからという事になってくる。
家に上り込み、母親を人質にしてまで指輪を手中に収めたい、彼の個人的な動機……それは何だろう。
独り占め?そんな風な事が頭に浮かんだ。彼の性格の卑しさを考えれば、非情にあり得る話なのである。
ここで警部が指輪を盗り返したら、おそらくきっとその事実が表へ出る事はないだろう。事実が表へ出る事は、ぼく自身にとっても困ることだから、当然誰も口外しない。……警部はまんまと指輪を持って逃げおおせることが出来るのである。それに、万が一指輪を盗んだ事が発覚したとして、実の所、その犯人はぼくである。告発しない限り、彼が疑われる事はなかった。
なんて、巧妙な策なのだろう。ぼくは思わず身震いする。これは、ぼくを隠れ蓑にした、指輪奪取計画。もはやその事に関しては、疑い様もなかった。彼の狡猾さが、どうにも恐ろしくて仕方ないが、攻めるのならここである。今、この局面を切り抜けるために、考えるべき事は、この情報をもとにどう警部を論破するのかという事である。
組織での公式行動といわけでは、当然ないだろうから、やり様によっては警察に通報するという手段も通用するわけである。
警察に逮捕された警部は、当然ぼくが指輪を盗んだ事実を告発するだろうが、ここでぼくが、脅されてやったと言えばどうだろう。
結局のところ、母親を人質に、ぼくを脅しているのなら事実なのである。この点を考慮するのなら、それは非常にあり得る話だった。ほかの警官たちの、信憑性を得てしまえばもうこっちの物である。窃盗と、脅迫の罪とで警部は逮捕され、ぼくと母さんはきっと元の生活に戻る事が出来る……。
徐々に、希望の光が見えてきた。母さんを人質に取られた時はどうするべきか戸惑ったけれど、警部がぼくの弱味を握っていると同時にまた、ぼくも彼の弱味を握っているのだ。
こう考えるとぼくと彼とは、案外平等に近い立ち位置なのかもしれない。
臆する必要はない……まずは、冷静にどう母さんを助けるかを考えよう。ナイフを手に突進すれば、事態は簡単に解決するだろうが、それでは元も子もない。もっと冷静に、言葉で警部を説得する他なさそうだった。
「……なぁ、オイ。聞いてんのかい少年」
耳の中を素通りしていた警部の声が、途端に鮮明になってくる。
自分の話を無視されていると思っているのか、幾分が警部は機嫌が悪そうである。
良い気味だ。今度は、ぼくが嘲ってやる番である。
「ねぇ、警部」
ぼくが視線を上げて問うと、警部は予想外だったのか、驚いた風な反応を返してきた。
「何だよ」
そう、変わりない口調で言ってくるものの、その目は動揺に揺れている。自分の中で思い描いていたシナリオとは、違った展開になったからであろう。
「警部がぼくの奪ったという指輪を回収しに来たのなら、当然捜査令状の類は持ち合わせていると言う事ですよね?」
捜査令状を持っている事は、文字通り組織として公式な行動である事の証明である。彼がそれを所持していないと言う事は、いよいよぼくの仮説通りとなってくる。
次の瞬間、彼は返答に詰まり、押し黙る物かと思っていたが、実際の所は違った。