あの人とともに
竜音寺みのりは、一か月前に事故で他界していた。ここに今いるのは竜音寺みのりの魂、要は幽霊だ。
私は昔からこういった類のモノと縁が濃い。物心が付いた頃には見えなくなってしまうそれを、私は見続けた。
彼らは訴える。失ってしまった命を。以前の自分を。
どんな暮らしをしていたのか。どんな夢を持っていたのか。それを訴えてくる。しかし彼は、竜音寺みのりは私に訴えることはせずにただ花瓶を見つめるだけだった。それが私には気になってしょうがなかったのだ。
「ねぇ、あいつ。本当にここにいるのか?」
お姉ちゃんが不安そうな声で部室を見回す。
「いるよ。ちょっと待っててね、お姉ちゃん」
そうお姉ちゃんに声を掛けると、私はみのりの顔を見つめる。
「私ね、霊感って奴のがあるの。しかも、トビっきり強力な奴がね。そりゃもう、イタコとして仕事ができるぐらいに」
「――な、何がしたいんだ?」
みのりは不安そうに言う。
「君に、私の身体を貸すよ。お姉ちゃんと、お話したいんだよね。だったら、しばらくの間なら、貸してあげる」
私の霊感は、歳を重ねる毎のその力は強くしていった。今では、こうやって幽霊に自分の身体を貸すことすらできるほどだ。
「俺を、信用するのか?」
「うん。だって君、悪い人じゃないでしょ?」
お姉ちゃんが家族以外で初めて心を許した人。そんな人が、悪い人なわけがない。
「俺は、甘えていいのか?」
「うん。だって君、お姉ちゃんの恋人でしょ?」
お姉ちゃんが大好きだった人。その人の気持ちを、伝えさせてあげたい。
「……それじゃあ、頼む」
「うん……」
「もう、実里なのか?」
和泉智美は、不安そうに自分の妹に声を掛ける。
「まさかまたこうして話すことなんてできないと思ってたから。だからさ、何を話そうか考えてなかったんだ。ごめんな、知美……」
竜音寺実里は言う。
「いつも言ってたじゃないか、君は。『考えるな、感じるんだ』って」
実里はそれに微笑みで答えた。
「わりぃな、先にこんな風になっちまって。追いかけてるつもりだったのに、追いかけられる方に回っちまうなんてな」
「……全く、君というヤツは。もう少しは、緊張感、と、いうモノを……」
智美の頬を伝うのは、涙だった。実里は、その涙を手で拭う。
「ごめんな。俺のことを忘れろ、なんて言いたいんだが、やっぱ苦しいな」
「無理だよぉ。だって、だって、君は一人だ。一人、だから。君に代わるようなヤツはこの先、会えないからっ」
実里の左腕が、背に回る。そして、左手は後頭部。まるで子どもをあやすように、背中を擦る。
「そんなことを言われると、恋人名利に尽きるな。でもな、死んだ奴のことを、いつまでも、考えるのは、よくない、から……」
「そう言う君だって、ほら、涙が止まらない。本当は、寂しい、くせに」
「仕方、ないだろ。だって、もう会えないんだ。だって叶えちまったんだ。報われちまったんだ。あの手帳が、まっさらな手帳が、本当にまっさらになっちまったんだ」
「お葬式の時だって、あんなに泣いたのに、まだ涙が、止まらない……」
「知ってるさ。だって見てたから、本当は、智美の横にずっと立ってたんだ。でも、気付いたんだ。このまま付いてったら俺は本当に幽霊になっちまうって。だから、こうやって遠くから見てたんだ。いつか再び話せる日を夢見て。そんな悔いが俺をこの世に繋ぎとめていた。だけど、叶えちまったから、報われちまったから、もうここで待ってるわけには、いかなく、なったから」
二人分の泣き声が部屋の中に響く。日は既に傾きかけて、窓から差し込む夕日が、ふたりを照らし出している。
「大学は智美が行くところを目指してた。将棋だって続けた。なのに、なのに……」
努力は実らなかった。いや、努力は断ち切られた。
「そんなに、想っていてくれて、嬉しいよ。実里……」
「……ひっく……あのさ。うぅ……最期に一局。やろうぜ。だってさ、せめてさ、智美に自分の努力を見てもらいたかったんだ。だけどさ……」
「ああ、分かってる。君の、竜の様に力強い将棋は、これで最期になるのか」
そして、部屋の中にその音が響き始めた。
「あのさ。なんか、ありがとな」
男の子は私にそう声を掛けた。
「いや、ね。あんな顔で花瓶を見つめてたら、いじめか何かかと思うじゃない」
「いじめってのはなかったなぁ。あのクラス、なんだかんだで子供みたいな仲良しクラスだから」
「安心した。一年と半年もあるんだ。仲良くしたいよね」
「ああ、仲良くしてやってくれ。結構、いいやつばっかだったからなぁ」
私は、男の子の手を握る。本当だったら握れないけど、ここは私の心の中。一つの身体に二つの魂。魂だったら、魂に触れることはできる。
「お前、名前なんて言うんだ?」
「――ひっどぅーい。自己紹介、聞いてなかったんだ」
「いや、まあ。一杯一杯だったからな」
「……まあ、そうだよね。……私の名前は和泉みのり。木の実の実に、茉莉の莉で実莉って言うんだよ。君と、同じ名前なんだ」
みのりは、目を丸くした。そして、またニヤニヤ笑いをする。
「な、何よ。一体何なのよ、その目はぁっ!」
「さあな、お前の姉ちゃんに聞いてみな」
「ぐ、ぐぅ。分かったわよ。そうする」
「……じゃあ、そろそろ身体を返すことにするよ。沢山楽しんだし、もう思い残しはない」
みのりは、寂しそうな顔で言う。
「寂しい?」
「うん、ちょっと。でも、きっと待つのも苦じゃないと思う。彼女には、幸せな人生を送ってほしいから、だからさ。君からも、この世では俺を諦めるように言ってあげてくれ」
「……お姉ちゃん、幸せ者だね」
「本当は、もっと別の形で幸せにしたかったけどな」
寂しそうに言う。きっとこれが一番の心残り。でも、叶えることができない心残りで、きっと彼も理解している。
「それじゃあ、もういくよ。何か、世話をかけたな」
「うん」
「智美に、よろしくな」
「……うん」
そう言うと、彼は、竜音寺みのりは私の心から姿を消した。
目を覚ますと、目の前にはお姉ちゃんがいた。疲れているようで、椅子に座り込んでいる。
夕日は既に落ちて、部室は真っ暗だった。
「ねぇ、お姉ちゃん。起きようよ」
「ん、んぅ。み、みみ、実莉ちゃん?」
「うん、実莉だよ」
どうにも挙動不審のお姉ちゃん。暗くてよく分からないが、肌が上気しているように見える。
「そ、そうだなっ。と、ところで、あの子に身体を貸した後のこと、覚えてる?」
「いや、覚えてないけど」
お姉ちゃんは、目に見えるほどの安堵の息を吐く。ちょっとまて、私が身体を貸している間、あの野郎何をやりやがったんだ。
「……そっか。あの子、もういったんだな」
お姉ちゃんは窓の外を見つめた。その目線の先には、小さな星が一つ。
「この話はしたっけ? 死んだあと、ヒトはどうなるのか」
「いや、その話は聞いたことがないな。いつも怖い話ばっかりだったからな」
「旅に、出るんだよ。何の旅かは分からない。でも、それはきっと未来への旅路なんだ」
「そうか……」
お姉ちゃんの表情は見えなかった。きっと私に見られないようにしてるんだ。