あの人とともに
彼は、机を指差す。そこには部活動日誌と印字された冊子が載せられていた。そこには『囲碁・将棋部』との部名と『竜音寺実里』との名前が書いてあった。
「りゅうおんじ、みのり? 女の子みたいな名前だね」
彼は急にニヤニヤとイヤらしい笑みを浮かべた。
「な、何よ。なんかおかしいところ、あるの?」
「いや、何でもねぇよ。それより、下校時間も近いな。お前さん、そろそろ帰ったらどうだ?」
時計を見ると、そろそろ帰った方が良い時間だ。ここから家に帰り着くまで一時間は掛かる。あんまりのんびりしてるとお父さんに怒られるだろう。私はカバンを持ち上げると、彼の方へと目を向ける。
「諦めたわけじゃないから」
私はそんな捨てゼリフを吐くと、部室を後にした。
思い出は、劣化しながらも匂いを深めてゆく。ぱちん、ぱちんと音を立てながら、その匂いを濃くして、ノスタルジィと共に胸を満たしてゆく。
これは、一番楽しかった頃の思い出だ。部室に、俺と、部長の二人。俺は部長と将棋をやっている。
「考えるな、感じるんだっ!」
いつも部室に響いていた台詞。彼の有名なブルース・リーの代表作、燃えよドラゴンにおいてリーが発した最も有名な台詞、それが「考えるな、感じるんだ」である。俺は前々からブルース・リーのその一言が痛く気に入っており、事あるごとに使わせてもらっていた。
「ふんっ、君はいつも考を軽んじる。だからこうやって、策に引っかかるんだ」
そう俺に諭すのは部長の智美である。俺は一年、彼女は三年。来年、本州の大学に進むことが確定しているという。
「げ……負けました」
「ほら、この通り。確かにその考より感の心得は重要なことがある。しかし、それはその事項についての十分な基礎知識と、経験あってこそのモノ。勘に頼るな、とは言わないが、考あっての感だ。それをしっかりと理解するんだ」
部長は駒を片付けながら言う。俺はその姿をジィっと見つめる。
綺麗な人だ。髪の毛はCMに出演できるレベルの光沢、目は大きいながらも子供っぽくはない。その瞳は深淵の黒。唇は薄く、しかしはっきりとした桜色である。鼻は小ぶりで、適度に高い。
「な、なんだ。恋する乙女みたいな目でこっちを見るな。なんか、恥ずかしいぞ……」
「え、あ。いや、その。何というか、感銘を受けたというか」
ちょっとはぐらかす。素直に奇麗だったから、とは言えない。勿論、恥ずかしいから。
「ふんっ。私はな、たった一人の部員を教育する為にだな……」
あと、この人は恥ずかしがり屋で異常なほどの照れ屋である。自信過剰の気があるのに、人前に出ると縮こまってしまう。こういった所だとその大きな胸を張るのだが、人の前に立つことだけは苦手なのだ。
「ほらほら、そんなことより、もう一勝負しましょうよ。もうそろそろ下校時間っすよ。最後にもう一勝負、しましょうよー」
「仕方ないな、君は。ほら、さっさと駒を並べろ」
そうやって、俺達は自分達の時間を過ごした。懐かしくて、悲しくて、寂しくて、そんなとても大切な思い出。
あの頃に戻れたら、と思う。部長と、智美と一緒にいることができた日々に。
でも、もう戻らない日々だ。黄金の日々は、戻らないから黄金色に輝いて見えるのだ。
涙が流れる。止まらない。嗚咽が止まらない。苦しい。寂しい。悲しい。あの頃を切望する自分がいて、だけど戻れないことに気付いている自分がいる。
「何で、何でさ。一緒にいたかったのに。ずっとずっと、皺くちゃになるまで一緒でいたかったのに」
その声を聞く者はいない。分かってる。だからこそ、俺は叫ぶんだ。
「どうしてなんだよっ!!」
そこで目が覚めた。俺は、部室の椅子に座って眠り扱けていた。
「あ、あぁ。あのあと、寝ちまったんだな。人間、どうあっても眠くなるものらしいな」
意識が飛ぶような眠り。
「相当、勉強したんだけどな。意味、なくなったなぁ……」
そう言いながら、手帳を握りしめた。
その日から私は花瓶の男の子、竜音寺みのりの監視を始めた。
日中はただ暇そうに教師の顔を見つめ、時々目の前の花瓶を邪魔そうに見つめたりしている。昼休みになると何処かに姿を消して、放課後は部室へと足を運んでいるようだ。私は、その時間にいつもお邪魔している。
「あのさ、お姉ちゃんが前この高校にいてさ。知ってたりする?」
「さあね。それよりさぁ、いい加減にしてくれる? 結構ジャマなんだけど」
「今度お姉ちゃんが帰ってくるんだ。東京の大学に行ってるんだけど、試験も終わったからそのまま家に帰ってくるって言ってた」
「あのさぁ、聞いてる?」
「この前一カ月ぶりだから楽しみなんだぁ。かっこいい人でさ、最近辛いことがあったって言ってたから心配だったんだけどさ。それなりに元気そうでよかったよ」
「その姉ちゃん、どうせ男に捨てられたりしたんだろ。俺には関係ないことだ」
とまあ、会話の状態はこんな感じだ。相手はもう、ディスコミュニケーション状態。私との会話をしようとは思ってない。これは、当人から話を聞くのは無理か。
でもまあ、どうにかしてこの件を解決しないことにはどうにもこうにもならない。いい加減、授業にも集中したい。
私は何か手掛かりはないか、と、日誌を開く。近い日にちから少しずつ読み進める。途中から、字体が変わっていることに気付く。何かおかしいと思ったら、記録者の名前が変わっていた。
「……これって」
「――っ! 見るなよっ!」
男の子は立ち上がる。
「ご、ごめ……」
「一人に、してくれ……」
みのりは、そう呟くと窓の外へと瞳を向けた。
彼を一人にする他ないだろう。私は彼に背を向けると、ゆっくりと部室を後にする。
これって、つまりそう言うことだよね。私は、一つの答えに辿り着く。
「大丈夫、上手くいくよ」
私は、そう自分を励ました。
そうして、一週間ほど経った。ある日、私はいつも通り部室へと姿を見せた。
「何だ、しばらく見ないと思ったら。また来たのか」
「あのねぇ、君のその態度は問題だと思うよ」
「うるせぇよ。少なくとも、プライバシーってのは考えないよりはマシだとは思うぞ?」
ぐぅ。うっさいなぁ、もう。
「あのさぁ、君。恋人がいたんだってね」
「――っ、どこでそれを」
みのりは眼を見開いて言う。
「それ。その日誌に書かれてた名前。その人と君のとの関係、ちょっと調べさせてもらったよ」
「き、さま……。やっていいことと悪い事が」
「ごめんね。でも、やらなくちゃいけないと思ったんだ。この状況、どうにかしたいと思ったから……」
「うるせぇっ、お前に何が関係ある! 俺と部長に……智美に何の関係があるんだよ!」
「関係、あるよ」
私は、胸を張って言う。
「智美は……和泉智美は、私のお姉ちゃんだから」
「――っ!?」
「竜音寺みのりくん。君に、会ってもらいたい人がいるんだ」
そう言うと、私はドアから廊下を覗く。
「入って、良いの?」
「智美……」
「みのり君。私は君をどうやって励ますか、その答えを知らないだけどね。君を一目見た時から思ったんだ。目の前の花瓶を退けることもできずに、ただ睨みつけることしかできない、死んでしまった君を……」
「……」