落ちる
<夜の海>
海は赤く燃えた。
私と赤音は夜の海にいた。真っ暗で何もなくて、すべて飲み込まれてしまいそうな濃い海と空がある。真っ暗で真っ黒。私たちはふたり。ただ、ふたり。
今日の赤音は何も言わない。ただ無言で私を海へと連れ出した。私たちの住む町から海はそう離れてはいないけれど、夜に家を出るなんて本当はしてはいけないこと。特に赤音は体も弱いから、夏が終わって肌寒くなったこの季節に本当はここにいてはいけない。きっと許されない。夜は不安定な闇。海も空も人も、闇。
私は悪い心の生き物。私は今も赤音の体調が心配で、海に来ることを冷たい水に触れることを止めない自分を責めていたけれど、本気で止めるつもりはないからだ。
赤音は何も言わなかった、私も何も言わない。でも、知ってる。今日は赤音の誕生日。もとより私には赤音の言うことは絶対で唯一のものだから。誕生日だから。
いいえ、ただ悲しいから。
私たちはただの秘密。
赤音は私に背を向けて、夜の海に足首まで浸かっていた。空にはただ一つ三日月だけが光を放っている。銀色の刃のよう。真暗な闇の海に浮かぶ月もまたありもしない輝きを放つ。存在などしない。なにも、ない。
「赤音…、海は、冷たいよ…」
赤音は涙を流さない。悲しい、苦しい、嬉しい、どんなときもきっと涙を流さない。なぜかそんな風に思った。いや、人に涙を見せないのかもしれない。
けれど、赤音の涙は透明で、命の色をしている。そして、ひとしずく零れ落ちて、その命は海へと還るのだろう。儚く淡い思いとなって人の温もりがかすかに光り、消えてゆく。その輝きはとてもとても小さくて、何よりも眩しい…。
(痛み)
海に溶けるような赤音を見ながら、そんなことをぼんやり思った。
私も裸足になって赤音のいる海へと入る。ひやりと冷たくて、けれど何も感じない。ざらりという砂の感触。海という生き物に包まれているのかもしれない。飲み込まれていく。水面は揺らぎ、海に映る銀色の三日月は歪に崩れる。
夜の海と闇の空との境界はあいまいで、けれどやはり透明。そのことが清くて、悲しいように思えて私は海から目を逸らす。
ただ、近づいた赤音の背を見つめる。
海の水の冷たさもだんだん分からなくなって、私と海と空の境目も曖昧になる。
私と、赤音も。
けれど、触れ合うことはなく溶け合うことはなく永遠に別たれている。
耳鳴りがする。遠く、遠くの海から呼ばれているような、そんな音。
涙は海へと還るだろう。涙は空へと還るだろう。私はどこへ還ればいい。赤音はどこへ還るのだろう。人と人は生まれるときから分かたれてそれぞれの個として痛む。私の涙、赤音の流されない涙もきっとひとつの水なのに。透明に溶ける。
いつの間にか私の目から涙が零れ落ちていた。滴が熱を生み、また冷たく死んだ。
静かですべてが生きていないような空間の中、気づけば赤音がこちらを向いて私を見ていた。私は赤音の顔を見ることができない。
「お前は何を泣いているの」
「何も、ないです。なにも、ない」
無い。私は自分がからっぽの空気のように思う。いいや空気は生きている。私は「から」、だ。そしてそれが私の姿。けれど、赤い色が一滴の染みのように強く色づく。
そっと私の前に赤音の指先が差し出された。青白い小指。月に光る。
「指切り」
私の心も体も、何もいらないなってふと思った。
赤音の欲しいものなんてわからない、何もあげられない私。けれど、赤音が望むことなら、私の「指切り」をあげようと思う。何の約束も交わさない、ただの指切り。
― ゆびきりげんまん、うそついたら、はりせんぼんのーます ―
指、切った
私は赤音は海に沈む、そう思った。海と赤音。それはまっ赤な世界。淡く冷たく溶け合って、すべての境界なんて初めから存在しない。赤い色、赤い海、赤い音。私の目の前が赤く光った。
赤音は私の世界。
世界は赤い。
…赤音さえ、いなければ、私はからっぽでいられるのだろうか。
私はからっぽ。
わたしはからっぽ。
からっぽの世界に赤の色がついたら、どうすればいい。
にくい。
わたしはあなたがにくいの。
言葉の意味もわからないまま、私ぼんやり”にくい”という言葉を思い浮かべた。
にくい って いとしい ってこと?
(痛い)
ゆび、きった
海は赤く燃える。