落ちる
<夢>
ある日。
私は走っていた。何かから逃れるように、必死に走っていた。昼休みの学校。人々のざわめきがとても遠くに聞こえる。眩しい日差しがすべてを嘘のように照らしだしていた。人気の少なくなった旧館の廊下を、私はただ走った。
奥にあるひとつの教室の前で私は立ち止まる。はあ、息が切れている。部屋の中に人がいるのは分かっていた。私はその人に会いたくて走ってきた。会わなくちゃ会わなくちゃ、世界が壊れないように。恐怖から逃げるために。
深呼吸して息を整えて、扉を開いた。
小さな空き教室、今はもう使われていないその部屋は赤音の休息場だ。体の弱い赤音が学校に遅れたり、休んだりするときに使うことを許可されているようだ。良く分からないけれど、赤音は病気がちで、赤音の家は「大きい」からだとか言われている。そういうものなのかもしれない。
なにより、赤音は保健室を嫌う。生徒たちの出入りもあるあの部屋は確かに落ちつける場所ではないだろう。それに、病室のようなあの白い部屋に赤音がいるのは私も嫌だった。赤音にはもっと色のある世界が似合う。悲しいほどに鮮やかな世界が。
赤音は一人、机の前に座っていた。なんだか一人で授業を受けているみたいな姿が不可思議に映る。どこか寂しい気持ちが心ににじむ。赤音は頬杖をついて横を向いたまま、扉を開けた私の方を見ようとはしない。
赤音の姿を見た私は少しほっとして、心の中の恐怖を吐き出してしまいたくなった。本当は言うべきではないと頭は警告を発していたけれど。赤音の姿を見たらすべてを曝け出したいと思う。泥にまみれた自分でもつかみきれない何かを。それは、赤音だから。
世界だから。
私は赤音の方を見ながら口を開く。
「私、おかしな夢を見ました」
赤音はゆっくりと私の方を見た。赤音はそう口数の多い方ではない。けれど、いつも黙って私の話を聞いていてくれる。なんだかとても申し訳ない気持ちになる。私は惨めだ。
「酷い夢です」
私は続けた。
「とても怖くて、怖くて、怖かった…」
なのに、夢の中の私は恐怖も感じず、心は凪いで、どこか楽しんでいた。そのことが何より恐ろしくて、目を覚ますと私は泣いていた。
私の見た夢。
赤音を切り裂く夢。
何もない暗闇の中、赤音は死んだように眠っていて、私にはそれが生きているのか死んでいるのか分からなかった。暗闇の中に赤音の白い肌、白い服、色素の薄い髪がぼんやりと浮かびあがっているようだった。
私はもう赤音は戻ってこないんだと思い、それならば隠してしまおうと思った。なるべく小さくして、大事にしまっておこう。なぜだろう。夢の中の私は小さいものならば自分の手に持っていられると思い込んでいた。隠して、閉じこめておけると。
そう思って私はどこからか取り出した刃物で赤音を切り裂いた。何のためらいもなく。赤音の白い肌からはやはり赤い血が流れた。夢の中の血はとても綺麗で鮮やかな色をしていた。とても嘘くさい赤い色。血の匂いすらどこか毒のように甘かった。私は必死になって赤音を小さくしようと切断した。私の力ではとても難しくて、何度も何度も失敗しながら、それでも私は何かにとりつかれたように刃物を動かした。刃先が駄目になって何本も刃物を使った。気持ち悪くて、吐きそうになるのに私の心はとても満たされていて、からっぽだった。