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最後の日

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さすがにトーストはタイマーをまわしているので良い具合に焼きあがった。 紅茶を入れる。紅茶にレモンを入れる。紅茶に砂糖を入れる。
 朝食を食べ終え、上着を着て、コートを着て、カバンを持って家の扉を開ける。玄関を開けて三歩ほど歩いた時に頭がぐらぐらした。腹に激痛が走り、脂汗が出てくる。僕はよろめいて、マンションの廊下に倒れた。

 気が付くと、そこは病院のベッドの上だった。
「気が付きましたか? 体調はどうですか?」
「はい、今は大丈夫です」
「急性胃炎ですね。おそらくストレスからくるものだと思います」
ストレスか……
「今日は半日かけて点滴を打ちましょう。栄養剤と痛み止めを入れてあります」
 こんなことは初めてだった。しかも、タイミングが良いというか悪いというか。銀座のあの地下にいた女性に言われたことが気にかかった。実は自分の身体には異変がおきているではないか?
 僕は不安な気持ちを抱えて、家へと帰った。死んでしまっても構わない――それはやはり強がりだった。急に本当に最後の日が近いのではないかと怖くなった。

 四月五日。僕は池袋から東武東上線に乗り埼玉県の武蔵嵐山という場所に向かっていた。手に二つの花束とお線香とライターが入った紙袋を持ち、電車から見える外の景色を眺めていた。電車の中はガラガラで席はいくらでも空いているのだが、僕は座らなかった。外の景色を眺めていたかったからだ。
 一時間ほどして、電車は武蔵嵐山の駅に着く。霊園の事務所に電話をして、送迎車を呼ぶ。十分ほどで、送迎車は駅に到着した。
「どうぞ」
 運転手が穏やかな声で僕に言った。僕は車に乗り込んだ。他に霊園に行く人がいないか、五分ほど待ち、誰もいなかったので車は出発した。
「今日は暖かくていい日ですねえ」
「そうですね」
「霊園の桜も満開で綺麗ですよ」
「そうですか」
 運転手は五十歳ぐらいだろうか、物腰の柔らかい感じで、話し方や雰囲気が父に似ている気がした。こみ上げてくるものがあり、僕は話しかけてくる運転手に対して素っ気ない会話しかできなかった。
 車が霊園の事務所に着いた。父の墓はここから少し坂を登ったところにある。五分ほど歩いて、その墓がある一角に着いた。手桶に水を入れ、柄杓を持つ。父の墓の方に視線を向けると、そこに一人の女性がしゃがんで目を閉じ、両手を合わせていた。
 二十五年ぶりだった。あの日以来だった。その女性を最初に見た時、一瞬、僕の心に憎悪のような感情が湧いた。でも、閉じた目から涙をこぼすその女性の顔を見て、それはすぐに消え去った。
 母だ。銀座のあの店の女性が言っていたことは本当だった。僕はゆっくりと母の方へ近づいて行った。
「おひさしぶりです」
「……」
 母はゆっくりと立ち上がり、僕の方を向いた。二十五年ぶりにみた母親の顔は痩せこけていて、六十一歳のはずの母はとても老けて見えた。まるで老婆のようだった。その姿をみて、胸の奥にあった憎悪はほぼ消えて、ここまでの母の変化を一度も見ることができなかった、悲しみが湧いてきた。
「弘樹、立派になったね。本当に、本当にごめんなさい……」
「父さんのことはいつ知ったの?」
「出て行ってから二年後にね、こっちに帰ってきたの。不倫していた上司に捨てられて。寄りを戻してほしいなんて、ずうずうしい気持ちではなかったのだけど、お父さんと弘樹の顔を見たくて……気づかれないように一目でもと思ってね。そうしたら、家が引き払われていて。その時に隣の斉藤さんが偶然、外に出てきてね。事情を聞いたの。罵倒されたわ。斉藤さんに。あなた、最低の女よねって言われた。そうだよね。わかっている。だって、私が、私がお父さんの命まで奪ってしまったんだものね……」
「何で、何で父さんを捨てたんだ。そんなにその上司に魅力があったのか。僕のことは息子のことは大事に思わなかったのか……」
 強い口調で言ったつもりだったが、最後の方は声が小さくなって涙ぐんでしまった。今更、責めても何にもならない。独身で兄弟もいない僕にとっては、唯一の家族なのだ。
「母さん、今はどうしているの?」
「大阪で暮らしている。水商売で貯めたお金でブティックを経営しているの」
「一人?」
「うん。お父さんのことを知ってから、償いのつもりで生きている。自分はもう他の誰かを好きになったりしちゃいけないんだって」
「……」
「弘樹は幸せに暮らしているの?」
「……ああ、幸せだよ。結婚して子供もいる」
嘘をついた。本当のことは言わない方がいいと思った。
「そう、それならよかった」
「この後は大阪に帰るの?」
「うん、仕事忙しいからね。弘樹、これからも、お父さんのお墓参りだけはさせてもらっていい?」
「もちろん。父さんのこと忘れないでやってほしい」
「ありがとう。やっぱり弘樹はお父さんの子だね。私に似なくて本当に良かった……」
 細い足で母はお墓を後にして階段を坂を下りて行った。母とはもう二度と会えないと思っていた。
 僕たち家族は二十五年ぶりに三人になった。

 四月八日。あの女性の予言の通りなら、今日が僕の最後の日になる。朝七時に目が覚めた。身体には何の異変もない。今日は平日だが、会社には有給休暇を出していた。あの女性が言ったことを信じたわけでないないが、今日は何か特別なことが起きるような気がしていた。
一人とは再会した。もう一人は……僕の頭の中に浮かぶのはあの人。ただ一人だけだった。
 朝食をとり、シャワーを浴びて、外へと出かける。どこに行こう。僕はあまり考えずに普段、よくいく場所へ一人で向かった。
 初めに海辺の公園へ行った。家から近いので、休みの日で天気がいい時はいつも自転車で行っていた。今日は春らしい暖かい陽気でとても気持ちがいい。
 その後、六本木の美術館へ行った。絵画展を見るわけではなく、ホールの一階のソファーに座って本を読む。一時間ほど、読書をした後は美術館の外に出て、近くにある公園へと向かう。近代的な真新しいビルの裏にあるこの公園には、庭園もあり、人工的な美しさと植物の本来の美しさが合い重なって、僕は大好きな場所だった。
 午後一時を過ぎても、なにも変わったことはなかった。身体に異変もない。日比谷線に乗り、恵比寿に出る。よく通っていた、ラーメン屋で昼食をとる。これが最後の食事になるのだろうか? 食事を終えて、これもまたよく通っていた喫茶店へと入る。そこで三時間ほど、読書をして過ごした。
日が暮れてきた。
 僕は山手線に乗り、有楽町へと向かった。とうとう、その時が近づいてきた。僕には何故だか根拠のない確信があった。
 有楽町の駅へと着いた。僕はまたあの道を歩いた。銀座四丁目の交差点を曲がった。二本目の道を左に入った。六十メートルほど歩いた。右手に公園がみえた。そこに……一人の女性がベンチに座っていた。見覚えのある顔だった。十七年ぶりだった。あの時、この場所で彼女を抱きしめた。彼女は僕に気づいて、にっこりとほほ笑んだ。
 僕は彼女の方に、公園の奥にあるベンチの方に歩いて行った。僕は彼女の隣に座った。
作品名:最後の日 作家名:STAYFREE