最後の日
「わたしも今日は仕事サボっちゃった」
「どうしてですか?」
「昨夜、いろいろと思い出しちゃって……眠れなかったの。とても仕事に行ける状態ではなかった。バイトとはいえ、こんなことしたらダメだよね」
昨日、積もった雪は一日でだいぶ無くなっていて、枝にまとわりついていた雪はすべて消えていた。
彼女はベンチから立ち上がった。僕の顔をまっすぐに見つめ、一歩、二歩と僕の方に近づいてきた。そして何も言わずに僕の胸に顔を押し付け、僕の背中に手をまわした。
彼女が感じた僕の心の温度は温かかったのだろうか、それとも冷たかったのだろうか。
僕自身も自分の心の温度がわからなかった。僕も自分の手を彼女の背中に回した。僕は今、一人の女性を抱きしめている。生まれて初めてのことだった。普通ならこの上ない幸せを感じるのだろう。でも、僕はそれがわからなかった。
「そっか」
少しの沈黙の後、彼女はそういうと僕から離れた。
「じゃあね」
少し微笑んで、寂しそうな顔をして、彼女は立ち去っていった。
それが彼女と交わした最後の会話だった。次の日、彼女はまた出勤しなかった。突然、今日で仕事を辞めますとの電話があったそうだ。彼女は僕のことをどう思っていたのだろう。辞めた原因は僕なのだろうか。僕は彼女の気持ちに応えられなかったのだろうか。僕は彼女のことが好きだったのだろうか? なぜだか、罪悪感が心の中に広がった。
夢が覚めたみたいだった。良い夢だったのか、いやただの幻だったのか。でも、少なくとも僕は彼女に出会えてよかったと思った。心の扉は開かなかったけど、初めて扉をノックしてくれた人に出会えた。ノックされたその振動が僕の心の奥に温かいものを運んでくれたそんな感じがした――。
あの場所に十七年ぶりに行ったのは四月一日、桜の蕾が膨らんで今にも花が咲きそうなそんな時だった。銀座四丁目で酒屋をやっている坂上さんというお客様。保険の満期が近づいてきたのでご挨拶に伺ったのだ。住所を見たときに、ピンときた。あの時のあの場所の近くだと。
支社のある品川駅から山手線に乗り、有楽町駅で降りる。有楽町マリオンの通りを抜け、晴海通りに出る。まずは四丁目の交差点に向かって歩き出した。昼間は四月下旬の暖かさだった今日の日も、夜になると少しひんやりとしてきた。あの時のことを思い出しながら、銀座の街を進んでゆく。四丁目の交差点まで来て、あの時と同じように上を見上げる。和光の時計台が温かい光を発して、現在の時刻を示している。あの時に自分の心にこみ上げてきた不思議な感覚を今日は感じない。
当たり前だろ、もう十七年も前のことだ。それにお前は一人なのだから。自分に問いかける。もう疲れてしまった。自分に向けて、話しかけるのは。
交差点を左に曲がり、二本目の角をまた左に曲がる。この道に入るのはあの時以来、三回目だ。住所を確認して周りの建物に気を配る。あった。ここだ。
あと三十メートルぐらい歩いた所だっただろうか、田中さんと一緒にいった“朧月”というお店は。道の先を見ると道路の右手に公園があった。そうだ、あの公園だ。桜の木はまだあるのだろうか。
坂上さんのお店を訪ねて、保険が満期になることを知らせ、更新の話を切り出す。静岡の支社にいる契約時の担当者の名前をだすと坂上さんは懐かしいなあと言って顔をほころばせた。更新の話はすんなりとまとまった。三十分ぐらいの和やかな談笑のあと坂上さんの店を後にした。
時計を見ると時刻は十九時五十分だった。僕はその道の先に向かって歩き始めた。“朧月”はまだあるのだろうか……
ここだ。ここのはず。地下に続く階段。そこには“朧月”の看板はかかっていなかった。階段の両側には青い光のトーチがついており、そこで足を止めた人を誘っているようだった。僕は自分の意思ではない、何かに突き動かされて階段を下りて行った。
階段を降り切って、左側にある扉を開ける。入ってすぐに狭い受付のようなカウンターがあった。そこには月隠(つきごもり)と書かれた表札がおいてある。
「大谷弘樹様、おいでになりましたね。お待ちしておりました」
淡いピンクのスーツを着た三十代後半ぐらいの女性が、落ち着いた声で僕に挨拶をした。どこかで――見たことがあるような気がした。でも、記憶をたどっても、はっきりとこの女性の存在が僕の頭の中にあるわけではなかった。
占い師? だから初めての客にこんなことをいうのだろうか? なぜ、僕の名前を知っているのだろう?
「どうぞ、お座りください」
暗くてよく見えなかったが、カウンターの前には黒い小さめの椅子が置いてあった。よくわからないまま言われたとおりに椅子に座る。普通なら不審に思ってすぐに店を出て行くのだろうが、僕はなぜが素直に椅子に座ってしまった。
「とうとう、あと一週間ですね」
顔色一つ変えずに淡々とした口調で女性は言った。
「何がですか?」
「あなたの寿命」
「はい? あの、あなたは占い師か何かですか?」
「いえ、違います」
「じゃあ、勝手に人の寿命なんて言わないでくださいよ。しかも一週間だなんて」
「忘れてしまったのなら、それでも結構です。でも、あなたはこの一週間で、過去にあなたと関係のあった二人の大事な人と再会します。その時間を大事にしてください。最後の日を迎えた時に後悔のないように素直な心で向き合ってください」
この店に入ってから、すべてが胡散臭くて信じられなかったが、目の前にいるこの女性が今、話した言葉は何のわだかまりもなく僕の心に入ってきた。
僕は立ち上がり、何も言わずに店の外に出た。階段を上がって外に出る。入るときに点いていたトーチの青い光は消えていた。
一週間……本当なのだろうか。僕は持病など何も持っていない。健康そのものだ。一週間後に死ぬとしたら、事故か何かだろうか。……でも、いいか、それでも。あと一週間しか生きられなくても、両親はもう二人ともいないも同然だし、僕自身に家族がいるわけでもない。それでもいい。
しかし、二人の大事な人とは誰だろう? 疑問に思う必要はなかった。僕が三十八年間の人生で深い関わりのあった人間はほとんどいないのだから。
四月二日。朝六時に起きる。今日も仕事の日。いつも起きる時間だ。朝食はトーストと紅茶、あとはたまに目玉焼きも作る。今日はその“たまに”の日だ。賞味期限ぎりぎりの玉子を割り、フライパンに落とす。十秒後に水を入れ、ジュ―という心地の良い音の後にふたをする。
食パンをトースターに入れ、タイマーをまわす。僕はやや強めに焼くのが好きだ。そして振り返り、口にふたをされて、もごもごしている目玉焼きのフライパンに向き合う。
考え事――昨日のあの出来事は何だったんだ。
ふたをされたフライパンから聞こえる音が小さくなってきた。もうすぐ窒息しそうなそんな音。
考え事――本当に一週間なのか。
ふたの隙間から煙のようなものが上がる。匂いがする。
僕はハッとしてふたを開けた。目玉焼きは縮まって、よくアニメとかである泣きそうな時の目の玉の形になっていた。ひっくり返すと丸焦げだ。