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最後の日

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「なんで、ここにいるんですか?」
「この公園の桜が好きだから、この時季は毎日来ているの」
「たまたま、今年の春だけですか?」
「毎年。十七年前のあの時からずっと桜のつぼみが膨らみ始めて、満開になって散ってしまうまで、夜の六時から七時まで、ここで本を読んだり、昔のことを思い出したり……」
「僕を待っていてくれたのですか?」
「大谷君、そういうところもあったんだね。自惚れだとは思わないの?」
「……」
「思わなくていいよ。自惚れだなんて、あなたのことが好きなのは本当だから」
「……」
「三十八歳、だよね。結婚とかしているの?」
「……いや、ずっと一人です」
「何で、もったいない。大谷君もてるでしょう」
「十七年前に一緒に食事に行った時も同じことを言われました」
「よく覚えているね」
「はい、あの時のことは忘れられません」
「まだ、抱えているの? 女性を信じられないトラウマ」
「いや……わかりません。でも僕はずっと後悔していました」
「後悔?」
「あの時、田中さんの気持ちを受けとめられなかったこと。僕は間違いなく、あなたに惹かれていました。あなただけは信じられるような……でも確信が持てなかった。本当は何も考えずにあなたのことを好きでいたかった。でも、どうしても心の奥に植えつけられてしまった腐った根が花を咲かせることを許してくれなかったんです」
 公園の桜は満開だった。春の風になびかれて、桜の花びらがちらほらと降り注いでくる。
「わたしもあの後、誰とも付き合わなかった。また、裏切られるのが怖かった。それにずっと、大谷君のことが心の中に残っていた。わたしね、自分でもよくわからなかったの。どうしてこんなに大谷君のことが好きなのかって。でもね、あの時のあの瞬間にあなたへの想いに芯が通った。そんな感じがしたの」
「それはいつですか?」
「覚えている? 大雪が降ってわたしたち二人だけで店を開けた時のこと。あの時はお店が暇で、大谷君、ヴィーナリーベってパフェを真剣に集中して、すごくきれいに形を作ったでしょう。わたしはその時の大谷君をずっと見ていた。パフェグラスを用意して、フルーツをカットして、アイスを乗せて、生クリームを絞って、キウイソースをかけて、ロールクッキーを乗せて。できあがったそのパフェをわたしが、受け取った。銀のトレーの上に乗せた。なんでもない仕事の中の一コマだけど、あの瞬間はたった一度きりの大切な時間だった。いつもは忙しくて、ただ仕事をこなすことだけを考えていた。でも、あの時だけは違ったの。特別な時間だったの」
 僕はあの時のことを鮮明に思い出した。十七年前とは思えない、色あせない鮮やかな記憶だった。
 働いていた店から、外の雪景色を見ていた彼女の表情。厨房でパフェを作って渡した時の彼女の笑顔。銀座四丁目の交差点、和光の時計台を見て感じた、いとおしさ。朧月で一緒に食事をして、打ち明けたお互いの過去。その後に公園の桜を見上げる彼女の横顔。翌日、同じ公園で抱きしめた彼女の温もり。
 もう一つ思い出した。僕の心の鍵穴にあの時、現れた鍵が刺さっていたままだったということを――
 鍵は回された。カチャリという小さな音がした。扉が開いた。僕は心から――彼女を好きになった。
「田中さん……僕は水を、光を求めてもいいですか? そうすれば花は咲くのですか?」
 彼女はじっと僕の目を見つめている。
「僕はあなたのことが好きです」
 緊張などしなかった。こんなにも素直に自分の気持ちが言葉に変わったのは、三十八年間生きてきて初めてだった。
「こんなおばさんでも本当にいいの?」
 彼女は無邪気に笑った。その笑顔は十七年前の彼女の笑顔となんら変わりがなかった。
 僕も笑顔で頷き、彼女の目を見つめた。僕は彼女の方に近づいて行った。彼女を抱きしめようと。
 その時だった、急に胸に痛みが走った。苦痛に顔が歪み、立っていられなくなる。その場にうずくまり意識が遠のいていく。
 彼女の顔を見上げる。彼女は時間が止まってしまったように、呆然と立ち尽くしている。やっと、やっと、人を愛せると思ったのに。やっと、母への憎しみを消すことができたのに。
“死んでもいいか”なんて嘘だ!頼む!僕を生かしてくれ……

 意識が朦朧とする中、僕はあることを思いだした。そうだ、今日を最後の日にしたのは僕自身だった。五年前、“月隠”にあの地下の場所に僕は行っていたのだ。
 そう、やはりあの時も吸い込まれるように地下の階段を下りて行った。階段のトーチの明かりはオレンジ色だったような気がする。階段を降り切って左側の扉を開けた。そこには薄いピンクのスーツを着た三十代くらいの女性が座っていた。
「よくおいでくださいました。あなたの心はわかっています。人生を終えたいのですね」
 何も言っていないのにこの女性は僕の心を見抜いていた。そう、僕は生きる意味を見失っていた。
 信じる人もいない。信じる道もない。人を愛することもできない。僕は毎日をただ、無意味に生きていた。もう、こんな人生なんていらない。そう思っていた。
「今なら、最短で五年後の三月二七日から四月一五日までが空いています。ご予約されますか?」
「予約?」
「はい、寿命を終える“予約”です」 
「……」
「悩んでおられますか? それは当然のことです。でも、あなたがお望みならば、その時の直前までにキャンセルすることもできます。あなたは意識をしてなくても必然的にもう一度、この場所に来ます。その時におっしゃってください」
 
 そうだ。まだキャンセルできるかもしれない。今日を最後の日にしなくて済む。“月隠”は目と鼻の先だ。今から、そこに行けば……
 必死になって僕は前に進もうとする。しかし体に力が入らない。胸の苦しみが断続的に襲ってくる。
 わずかな苦しみの隙をついて前に進む。もう一度、彼女の方を見上げる。彼女はなぜか立ち尽くしたままだ。
 二十分をかけて、僕は地下へ続く階段にたどり着いた。這いつくばって階段を下り、左側の扉を開ける。
「キャンセルしてくれ」
 暗闇に向けて僕はそういった。人がいるかもわからなかったが、とにかく僕は精一杯の声を振り絞りそういった。
「かしこまりました」
 その声が微かに聞こえて、その後僕は意識を失った。

 六月八日。じめじめとした梅雨の中休みで今日は朝から晴天に恵まれた。ベランダから桜の木が見える家に住みたい。彼女の希望を最優先にして、新居を選んだ。僕たちは昨日から一緒に暮らしている。南向きで日当たりのいい、公園の桜並木に面した、とても素敵な部屋だった。来年の春がとても楽しみだ。毎年、僕たちはここから二人で満開の桜を見ることができる。
 今日は朝から、段ボールに入っているそれぞれの荷物を整理していた。「あった。この箱だ」僕はその箱から食器類を出した。
「ちょっと疲れたね。休憩にしようか?」
「そうだね」
「じゃあ、あれを作ろう」
「久しぶりだね、本当に」
 昨日、近くのスーパーでフルーツとお菓子とアイスクリームと生クリームを買っておいた。
作品名:最後の日 作家名:STAYFREE