最後の日
「母が父を裏切って、父は自殺しました。父は真面目で優しくて誠実な人間でした。母のことも本気で愛していたはずです。でも、母は十三年間、夫婦として人生を共にしてきた父をあっさりと、いとも簡単に裏切りました。なので、僕は……女性を信じられないんです」
思わず、話してしまった。重いよな。こんなことを自分から誰かに話したのは初めてだった。
「……そう、悲しい思いをしたんだね」
彼女は眉間に少ししわを寄せ悲しそうな表情をした。その後、わずかな沈黙が流れた。
「わたしもね、裏切られたんだ、好きな人に……もう三年前のことなんだけど、話聞いてくれる?」
僕は黙って頷いた。
「遠距離になってしまったの、その時付き合っていた彼とは。幼馴染で二歳年上でね。小さいころは沖縄の海で一緒によく遊んだりした。とても頭が良くて行動力があって、頼りがいのある人だった。高校生の時から十年間付き合った人で本当に大好きだった。このままこの人と結婚できたらいいなあって、付き合い始めたときからずっと思っていた」
カチャ。小さな音がした。彼女が飲んでいるグラスの氷が動いた音だった。彼女は少しの間をおいて、再び話し始めた。
「よくあるパターンなんだけどね。遠距離になって、初めのころは彼もよく電話をくれたの。東京ってこんなに寒いんだな。甘く見ていたよ。会社がある新橋はさあ、すごくたくさんの人がいて。……なんて本当にありきたりの会話をして、それでもそんな会話ができることがすごくうれしくて、うれしくて、たまらなかった。でも、だんだん連絡が来なくなったの。こっちから電話しても呼び出し音が繰り返し鳴るだけで、電話から聞こえるのは彼の声ではなくて、留守電の機械的な女性の声ばかりで……それでね、わたし彼に内緒で東京まで行ったの。とても寒い雪が降っている日だった。彼の住んでいるマンションに何も言わずにいきなり行って、もちろん日曜日に」
苦笑いを浮かべて、彼女は下を向いた。そして顔をあげ、続きはもうわかるでしょう?というような笑みを浮かべて、彼女はまた話し始めた。
「彼の部屋の前に着いて、インターホンを押して、祈るような気持ちだった。でも、彼は部屋にはいなかった。留守だったことが残念なような、ほっとしたようなそんな気持ちだった。出直そうとして歩き出して、下におりるエレベーターを待っていた。二十秒後にエレベーターが着いた。そこには半年ぶりに見た彼の顔があった。そして、その横には初めて見る女性の顔があった。二人は腕を組んでいた。手にはコンビニの袋をぶら下げていた。彼の大好きなレモンティーが半透明の袋に透けて見えていた。わたしはその時、彼に何も言えなかった。恐れていたことが、予想していたことが的中して……何も言わずに、二人の横をすり抜けてエレベーターに乗った。彼もわたしに何も言ってこなかった。わかってはいたのだけれど、いきなり押し掛けたりするべきじゃなかった。そのことを後悔したけど、それをしなければ、その後にもっと大きな後悔をすると思った。あの時にわかってまだよかったのかもしれない。マンションからの帰り道、駅まで歩く途中に小さな公園があってね。地面も木もベンチも滑り台もブランコも、すべて雪で白くなっていて、とてもきれいだった。でも、でもね、その白さがとても虚しくて、とても寂しかった。たった半年、半年でわたしと彼との十年間は終わってしまった。離れてしまった半年が重かったのか、一緒にいた十年が軽かったのかはわからない。でも、軽かったとは思いたくなかった」
「……」
彼女はまるで恋愛小説の一部分を朗読しているかのようだった。僕は何も言えなかった。何か言うべきだと思った。でも、何も言えなかった。彼女は初めからこういう話をするつもりだったのだろうか。僕の過去の話を聞いて、思わず吐き出してしまったのだろうか。
「鰆の柚子風味焼きでございます」焼き物の鰆がテーブルに運ばれてきた。
重くなった雰囲気のところに爽やかな柚子の香りが漂い、重い空気が少しだけ晴れたような気がした。
「話題、変えようか。大谷君は好きな芸人さんとかいる?」
「えっ?」
突拍子もなく、彼女は他愛もない会話を始めた。それから僕らは職場の同僚のことや店長のこと、常連のお客さんのことなど、さっきまでの会話は忘れてしまったかのように取り留めのない会話を続け、食事は終りを迎えた。
店を出て、階段を上がる。通りに出ると、入った時には気づかなかったが、向かい側にちいさな公園があった。そこには一本の大きな桜の木があり、枝に積もった雪の隙間からほんの少し膨らんだ蕾が見えた。
彼女は公園の桜の木をじっと見つめていた。僕もその桜の木をじっと見つめた。いや、魅入られてしまったのかもしれない。
「桜って、花が咲き始めて満開になるとみんな綺麗、綺麗って喜ぶでしょう。でもね、わたしは咲き始める前の、蕾が膨らんだぐらいの桜が一番好きなの。これからっていう希望に満ちているっていうか。満開になってしまったら、後は散ってしまうだけだから……」
「僕は……僕がもし植物だったとしたら、一生花を咲かせることはないと思います」
「大谷君が自分から水と光を求めるようになれば、きっと花は咲くと思う」
彼女はそう言った。僕にとっての水は、光は、彼女なのだろうか。少なくとも今の僕には彼女以外の女性の存在は考えられなかった。
彼女は僕の方に視線を向けた。そして、僕の方に体の向きを変えた。まっすぐに僕を見つめるその視線から見えない鍵が現れて、僕の心の扉の鍵穴にまっすぐに突き刺さった。あとはその鍵を右に回せば、カチャリと音を立てて、それは外れてしまうのではないかと、そう思った。
次の日、出勤のはずの彼女の姿が見えなかった。
「店長、今日は田中さん、どうしました?」
「体調が悪いから休ませてほしいって、電話があった。めずらしいよな」
どうしたのだろう? 普通に風邪か何かひいたのだろうか? 昨日、一緒にいた時は具合が悪そうには見えなかったけど。心が疼いた。僕と食事をしたことが何か関係しているのだろうか? いや、それは自意識過剰だろう。おかしい、今まではこんな風に思ったことは一度もないのに。
その日は一日、仕事に身が入らなかった。昨日のことが、頭の中で心の中でいっぱいで、彼女の笑顔が寂しそうな顔が浮かぶばかりだった。
今日は平日なので、バイトのあとには大学の授業が入っていた。僕は夜間の大学に通っている。でも、今日は授業に出る気にはならなかった。バイトを終えて、店を出た後、銀座方面へと歩いた。昨日、彼女に連れて行ってもらった店へもう一度、行ってみたくなった。いや、その店に行きたかったというよりは昨日と同じように、彼女と一緒に歩いた道を歩きたくなったのだ。
四丁目の交差点を曲がり、二本目の角を左に曲がり、細い路地に入る。右手に昨日、店を出た後に立ち止った公園が見えてきた。その公園のベンチに一人の女性が座っていた。田中さんだった。彼女は僕に気づき、穏やかに微笑んだ。僕は彼女のほうに近づいて行った。
「今日は学校の授業はサボり?」
「はい、ちょっと今日は……」