詩の批評
詩作行為の倫理学
0.はじめに
例えば外を歩くという行為を考えてみよう。その際私は歩く場所として歩道を選択し、車道は歩かないだろう。そのとき、歩き方は「人間は歩道を歩くべきだ」という一定の社会的な規範に従っている。また、私は、常に大股で速く歩くかもしれない。そのとき、歩き方は「大股で早足に」という一定の個人的なスタイルに従っている。そして、私は買い物をするためにスーパーに歩いて向かっているのかもしれない。そのとき、歩くことには「買い物」という目的がある。また、私は友人との約束を失念して買い物に行ってしまったかもしれない。そのとき、スーパーへと歩くことは約束を破ることを来たし、私は約束を破った責任を問われる。
さて、詩を書くことも行為である。よって、歩く行為についての以上の記述が、同様に詩作行為にも適用される。詩を書くとき、私は詩の社会で肯定的に評価されているスタイルで書くかもしれない。それでも私個人のスタイルというものも表れてしまうだろう。そして私は自己満足という目的で詩を書くかもしれない。詩を書くことで出来上がった詩が読んだ人に高く評価されるかもしれないが、そのときその評価は私に帰属する。
要するに、詩作行為についても、それが行為である以上、規範の問題、価値・目的の問題、因果関係・帰属の問題、などが生じてくる。これらの問題はとりもなおさず倫理学の問題である。私が本稿で意図するのは、倫理学の行為分析の枠組を詩作行為について適用することで、詩作行為の倫理性を明らかにするとともに、詩作行為について倫理学的な分析を加え、詩作行為についての明晰な認識を提示することである。
なお、倫理学には、「何が正しい行為か、何が善なる行為か」という、善などの具体的内容を問う実体的倫理学と、実体的倫理学で用いられる道具立てを分析するメタ倫理学がある。本稿は、規範などといった、行為を語るときに用いられる道具を分析するので、メタ倫理学に対応するものである。
また、本稿を書くにあたって黒田亘『行為と規範』(勁草書房、1992年)、山田・小田部編『スタイルの詩学』(ナカニシヤ出版、2000年)を参考にした。
1.スタイル
1.1.スタイルの類型
行為は何らかの規則にしたがって行われる。その規則のうち、社会的な圧力によって維持されるものが規範である。規範の例としては、法規範、社会的慣習などがある。それに対して、その維持のために社会的圧力がかけられない規則があり、例えば格率(マクシム)と呼ばれる私的な生活上の決まり(例えば「食事は腹八分目」など)や、歩き方のような自生的に発生してくる事実としての規則がある。
詩作行為については、(1)その規則に従った方が社会的に認められやすい、そういった規則があり、それは事実上詩を書く者に社会的な圧力をかけているといえるから、そのような規則は規範と呼べる。一方で、(2)特に社会的に歓迎されるわけではないが、個人的に好んで従うような規則は格率と呼べる。さらに、(3)規範や格率のように、意識的に定立されたものではないが、詩人の個性の流出として自然に形成される規則(個性的スタイル)というものがある。これら三種の規則を包括して、私は「スタイル」(あるいは「様式」)という言葉を使いたい。
なお、規範や格率については、その規則に「従うべき」という当為(すなわち評価)が伴っているが、個性的スタイルについては、詩人がそのスタイルに「従っている」という事実があるのみである。もちろん、規範や格率が個性的スタイルに浸透し、あるいは個性的スタイルが規範や格率に格上げされるということはあるわけで、それらを判然と区別することは困難である。
1.2.howとwhat
さて、行為には対象がある場合とない場合がある。詩作行為に限って言えば、それには対象があり、その対象とは語であり詩行であり詩である。詩作行為において、スタイルの問題は、まずは(1)対象(what)をどのように(how)描くかという問題である。さらに、それに先立つものとして(2)対象(what)をどのように(how)選ぶかという問題もある。
howの問題がスタイルの問題である。そして、whatとhowは様々な抽象度を持ちうる。
うつらうつらと雨の滲む酒場を
ひっそりと私は魚となって泳いでゆく
(雨森沈美「丘、または酒場で」GT0007 )
まずここで詩作行為の対象(what)を「酒場」という抽象的なものだと考えよう。雨森は酒場を、「雨が滲む」という形容を施し、また「私」が泳ぐ場所として描いている。雨森はここで(1)何を(what)(2)どのように(how)描いているかというと、(1)抽象的な酒場というものを、(2)形容しまた主体が行為する場所として、描いている。
次に、ここで描かれている対象(what)を、具体的な酒場としてとらえよう。すると、ここでは、「雨が滲み私が泳ぐ場所となっている酒場」が詩作行為の対象(what)であることになる。具体的な対象のあり方には、その描かれ方が入り込んでしまっている。つまり、whatにhowが入り込んでいて、それらは不可分である。
つまり、描かれる対象を抽象的なものとして捉えれば、対象とスタイルは一応可分であるが、描かれる対象を具体的なものとして捉えれば、対象とスタイルは不可分なのである。
さて、次に対象の選択のスタイルについて。ここで一方井亜稀の詩をいくつか採り上げる。
死ンダ鮭/ノ/朝日ニギラツク/鋭イ目玉/其ノヒカリ
(「まよなかの地震」GT0407)
グラスからジュースが/血液のように零れて/ぎょっとする
(「日曜日」GT0501)
泥濘の道を来た(中略)植物の匂いをへばり付け
(「倦怠」GT0504)
これらからは、一方井が、平穏な生活意識からは無意識的に隠蔽されてしまう生々しく直視しづらい対象を採り上げる、という選択のスタイルを持っていることがわかるだろう。
描写のスタイルについてはwhatの抽象度によってhowとwhatの可分性が問題となったが、選択のスタイルについてはhowの抽象度によってhowとwhatの可分性が問題となる。
選択の仕方が抽象的なもの(例えば「生々しさを感じさせるように」など)であれば、その選択のスタイルによって選ばれる対象の範囲は広い。この場合、選択のスタイルと選択される対象の結びつきは弱く、howとwhatは可分である。
だが、選択の仕方が具体的なものであるとき(例えば「生理的で生々しさや醜さを感じさせるように」など)は、選択のスタイルによって選択される対象はかなり限定されてくるので、howとwhatは不可分になる。
スタイルとは選択・描写の仕方であるが、場合によって、それは、選択・描写の対象と不可分である。それゆえスタイルを論じる際には、形式だけではなく内容についても論じる必要が出てくる場合がある。
1.3.複数種のスタイル間の相互浸透