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詩の批評

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 倫理学には義務倫理学(deontology)と、価値倫理学(axiology)・目的倫理学(teleology)がある。カントによれば道徳法則とは、無条件に従われるべき普遍的な定言命法(kategorischer Imperativ)であり、何らかの目的を持つ仮言命法(hypothetischer Imperativ)ではない。道徳的な行為とは、普遍的に妥当する規範に無条件に従うことであり、何らかの価値を目的としてなされるものではない。カントの立場は義務倫理学の典型である。
 さて、ここで詩作行為に目を転じてみよう。特定の詩作スタイルがカント的な意味で普遍性を獲得するということは難しいとしても、詩人が特定の詩作スタイルに無条件に従うという事態はそれなりに起きているのではないか。何らかの目的を達成するためではなく、ただ理由も分からないまま特定のスタイルに従って詩を書くということは十分ありうる。例えば俳句を例にとってみよう。五七五のリズムで季語を入れるというスタイルに従うことが、何らかの価値を実現するためであることをしっかりと認識している俳人はどれほどいるだろう。もっと大きなスケールの規範としては、日本語というものがある。詩人は詩を書くとき、日本語の語彙・文法という規範(社会的圧力の伴うスタイル)に従って書いているが、そのことの目的を自覚しているだろうか。何の疑いもなく日本語というスタイルで詩を書いているのではないか。では、現代詩内部でのスタイルはどうか。

 素足の私は捩じれた棒となって巻き上がった 発熱する息子がかわいいとうすい大地を舌で舐めながらあなたの妻は私を舐める(中略)非の打ち所のない出会いだった
(雨森沈美「半島へ」GT0008)

ここには、まず、(1)「素足」「発熱」「舐める」という身体的なモチーフの選択というスタイルがある。次に、(2)「私」を「捩じれた棒」にたとえ、さらに棒は通常巻き上がれないにもかかわらず「巻き上がる」という隠喩を使っているという、比喩の連続というスタイルがある。そして、(3)通常「出会い」を修飾するためには用いられない「非の打ち所のない」という形容句を用いている。ここには、「非の打ち所のない」という言葉の意味を正確に把握することにより、その適用対象範囲を広げ、意外な対象(「出会い」)へそれを適用することにより対象の微細なあり方をとらえるというスタイルがある。
 ここで、雨森は、それぞれのスタイルのもたらす効果を認識しながら詩を書いていたと思われる。身体性の言語化による非日常化、比喩の連続による変転の爽快な速度、修飾の工夫による世界の豊かさの開示。雨森は「良い詩」を書くために、以上のようなスタイルを採用したのだと思われる。
 さて、ここで三つのスタイルを採り上げた。(1)雨森の作品に見られたスタイル、(2)俳句の形式、(3)日本語の形式。(2)(3)については、規範と呼ぶにふさわしく、通常の意味での普遍性もあり、またそれに従う者はその目的を認識していない。つまり、(2)(3)は自己目的的な規範であり、詩人はその規範に従うべきだから従っていて、その規範に従う目的は滅多に意識されない。よって、義務倫理学的な発想になじむ。
 一方で、雨森の詩に見られたスタイルはそう単純ではない。そこには自己目的的な規範が個性的スタイルに浸透し目的を回復したり、個性的スタイルが格率や規範となり目的を失ったりというスタイル変動のダイナミズムがある。
 引用部にみられたスタイルのうち、比喩の連続は規範性があるかもしれない。つまり、先行する詩人たちが比喩を多用し、それに影響を受けて雨森も比喩を多用し、また詩人の社会でも比喩の巧みさが高く評価される。詩において比喩を使用することは比較的規範性が高い。つまり、初めは雨森は規範・当為として「比喩を使うべき」だったのである。一方で、そもそも規範的で普遍的で自己目的的だった比喩の使用というスタイルが、雨森のものの見方に浸透していき、やがて、雨森は事実としてごく自然に比喩的なものの見方をするようになっていく。つまり、雨森は次第に個性的スタイル・事実として「比喩を使う」ようになったのである。そして、比喩を使う目的は「よりよい詩を書くため」などといった風に、十分に意識されていく。
 一方で、引用部に見られたスタイルのうち、身体的モチーフの選択や絶妙な語句の使い方は、雨森がごく自然に生み出した個性的スタイルだったかもしれない。だが、そのようなスタイルに従って作られた詩に、雨森自身が満足し、あるいは他の詩人がそのような詩を高く評価するようになると、それらのスタイルは格率となり、それらのスタイルに「従うべき」という当為が発生してくる。
 (1)社会的な圧力を伴う規範は普遍的であることが多く、従うべきものであり、目的が隠されていることが多い。確かに規範についても人間はそれに事実的に「従っている」という側面もあるが、その背後には「従うべき」という当為が控えている。よって義務倫理学的な発想になじみやすい。(2)社会的な圧力を伴わない格率は、それほど普遍的ではないが、個人的に従うべきとされたものであり、ある程度目的が隠されてしまう。(3)自生的な個性的スタイルは、普遍性はなく、個人的に事実として従っているものであり、必ずしも背後に当為があるわけでなく、それなりに目的が意識されていることが多い。それゆえ義務倫理学的な発想にはなじみにくい。
 現代詩の詩作行為にはこのような複数種の性質の違ったスタイルが相互に浸透し合いながらかかわっているのであり、単純に義務倫理学的に把握することはできない。


2.価値・目的

2.1.出来事の連鎖

 アリストテレスは、実践的推論のあり方として二類型を提示した。まず、(1)規範事例型。

 大前提:すべての人間は困っている人を助けるべきである。
 小前提:私は人間であり、彼は困っている。
 結論:私は彼を助ける。

これは義務倫理学型の推論形式である。つまり、この大前提には規範は示されているが、その目的は示されていない。まず規範に従うべきであり、そして現実問題として規範が作動する状況に自分がいるので、実際に規範に従うという推論形式である。次に、(2)目的手段連関型。

 私は喉を潤すものが欲しい
 コーヒーは喉を潤すものである
 私はコーヒーが欲しい
 私は自分の欲するものを買うべきである
 私はコーヒーが欲しい
 結論:私はコーヒーを買う。
作品名:詩の批評 作家名:Beamte