詩の批評
詩集「今年の夏」を手に取り、様々に角度を変えて眺め、心地よい重みを感じながら、軽くめくってみたりする。詩集は自ら目に見える動きをしたりはしない。だが、私には「今年の夏」は植物のように瑞々しく静かな生を営んでいるように思えてくる。詩集を動かしたりページを繰ったりするのは確実に私なのだが、にもかかわらず、実は詩集が自ら動いたのではないかとすら思えてくる。
「今年の夏」がひとつの生き物であるという印象は、3で述べた笹野の詩の快活さに由来する。笹野の詩は生気にあふれているから、詩を物理的に情報化していて詩の印象の原因となっている詩集の文字たちが生きているかのような錯覚を覚え、さらにはそれらの文字たちの物理的な支持体となっている冊子全体にまで、「生きている」という錯覚が波及していく。
笹野の詩は笹野の生命を直接的に反映し、物理的な詩集としての「今年の夏」は笹野の詩を物理的に情報化しているのだから、笹野の生命は笹野の詩を介して詩集にまで及んでいるように感じられるのだ。これが可能になっているのは、笹野の詩が生気にあふれ笹野の生命を直接的に反映しているからだ。私は笹野の詩集を読むまでは、「この詩集は生きている」と感じたことはなかった。今となってはあらゆる詩集に生命を感じることができると思うが、そのきっかけは笹野の詩集であるし、笹野の詩集がその快活さゆえに読者に非常に生命を感じさせやすいことは事実だと思う。
人間の道具の中で、本は比較的生命を感じさせやすい。なぜなら本は文字を通じて我々に語りかけてくるからだ。本のなかでも詩集は特に生命を感じさせやすい。なぜなら詩集は詩人の肉声を伝えることが多く、詩人の生命がより直接的に投射されているからであり、また詩集は我々を情緒的に楽しませることが多く、その楽しみの活力が詩集に投射され、詩集自体が活力を備えているように思われるからでもある。詩集の中でも笹野の詩集は特に生命を感じさせてくれた。それは笹野の詩が肉声に近く、感性の発露によって読者を楽しませ、快活なものであるからだ。