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詩の批評

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次に文に出てくる動詞が他動詞の場合。「AがBを食べる」を基本形とする。

(3)「aがbを食べる」ただしabはABと無関係。
 例えば「人が肉を食べる」に「山羊が野菜を食べる」が後続するような場合。このような場合は主体のみ、客体のみが入れ替わっていて、主体と客体の入れ替わりは生じない。

(4)「BがAを食べる」
 例えば「私は夜を食べる」に「夜は私を食べる」が後続するような場合。「食べる者」→「食べられる者」、「食べられる者」→「食べる者」の両方の交代が起きていて、主体と客体は双面的に入れ替わっている。

(5α)「cがAを食べる」
 例えば「私は夜を食べる」に「昼は私を食べる」が後続するような場合。「食べる者」→「食べられる者」の交代はあるが、「食べられる者」→「食べる者」の交代はなく、主体と客体は片面的に入れ替わっている。

(5β)「Bがcを食べる」
 例えば「私は夜を食べる」に「夜はあなたを食べる」が後続するような場合。「食べられる者」→「食べる者」の交代はあるが、「食べる者」→「食べられる者」の交代はなく、主体と客体は片面的に入れ替わっている。

 さて、笹野の詩に出てくる主客交代は、すべて片面的なものである。(2α)か(5α)の類型である。引用部は「剥がす」という他動詞が問題となっていて、「剥がす者」(「私」)→「剥がされる者」(「私」)の交代はあるが、「剥がされる者」→「剥がす者」の交代はない(「私」が剥がした言葉が、私の言葉を剥がすある他人のものであるとは限らない)ので、(5α)の類型である。では、このような片面的主客交代はどのような詩的効果を持つか。
 まず、(3)のように主客交代がない入れ替わりはそれほど面白くない。「人が肉を食べる/山羊が野菜を食べる」には、同じ構造の繰り返しという微弱な面白みがあるに過ぎない。だが、(4)のように主客交代があると、一つの文構造においてある要素が一方の極で安住していたのに、その安定を裏切りその要素はその文構造の反対の極へと移動してしまう。「私は夜を食べる」において、「私」は作用素・主語としての地位で安定していたのに、すぐさま「夜は私を食べる」において受動素・目的語としての地位に反転させられる。この不安定さが読者の期待を裏切り、読者に認識の更新を強制し、それが微弱な違和感とともに知的な刺激となって読者の感性を楽しませるのだ。
 だが、(4)の双面的主客交代のケースでは、「主体が客体を食べる」という文構造の要素(主体・客体)を埋めるのは「私」と「夜」だけであり、文構造が適用される範囲が広がってゆかない。主客交代は閉じてしまっていて、「私」と「夜」しか交代する要素がない。それゆえ閉塞感がある。それに対して、(5α)(5β)の他動詞に関する片面的主客交代の類型では、主客交代が起こるだけではなく、文の構造の中に新しい要素を引き受け、主客交代が次々と無限に連鎖していく予感を読者に抱かせる。「私は夜を食べる/昼は私を食べる/あなたは昼を食べる/朝はあなたを食べる/…」といった具合にである。この連鎖の予感、広がりの予感が読者を楽しませる。
 他動詞に関する片面的主客交代は、主客交代の楽しみを閉塞感なく、広がりの予感とともに読者に味わわせる。引用部では「その向こうでも/耳そうじをする人/そしてその向こうにも」という風に、主客交代の無限連鎖を明示的に示し、読者に遠くを眺望するような感覚を効果的に与えている。

3.強いられた快活さ

今朝の電話
姉さんの声はどこか呆けた人のようだった
お父ちゃんの肺に影があるらしいんよ
大丈夫なん?
大丈夫なわけないのに間の抜けた声でわたしは聞いた
(中略)
電話を切ったとたん
ひーって変な声で泣いてしまったから
目も鼻も腫れてしまったから
もうお昼になってしまった
        (『今年の夏』より)

 詩人は詩を書くとき、軽い興奮状態になり、快活な精神状態になることが多い。だが、快活な精神状態にあるからといって快活な詩が出来上がるとは限らない。快活な精神状態のもとで重苦しい詩が書かれたり、グロテスクな詩が書かれたり、淡白な詩が書かれたりする。だが、笹野は快活な精神状態の下でそのまま快活な詩を書いている。この直接性に笹野の詩の魅力がある。笹野の詩は肉声に似ているのだ。というのも、喜んでいる人の声は喜びの調子を帯びるといった具合に、肉声は精神状態を直接反映するからである。喜んでいる人の声は聞く人の心も喜びの方角に偏向させる。同じように、笹野の快活な詩は読む者の心をも快活にし、詩を媒介にして作者と読者の心理状態が似通ってくる。笹野の詩は、作者の詩を書く楽しみを読者に分け与えるのに最も適している。
 笹野の詩の快活さは、日常語の使用や感性の鋭さ、表現の直接性に由来する。これに対して、仮に笹野が漢語や観念語を多く使い、月並みのことしか感受できず、一つ一つの表現を吟味していたら、快活な詩にはならなかっただろう。だがそれだけではなく、一つの習慣、一つのシステムが、実際上は笹野の詩の快活さを生み出している。笹野は詩としての表現を積み重ねていくある段階で、鋭い感性に裏付けられた直接的な日常語の使用という詩作習慣・システムを形成し、これに束縛されるようになった。だから、今となっては、笹野は自ら形成したシステムによって快活な詩を書くことをいわば「強制」されているのである。だから、引用部のような父の重篤な病に関する詩でも、笹野は快活に書くことを「強いられた」のである。詩人が自ら形成した詩作習慣に束縛されることによって、テーマと書法がそぐわない詩が創り出されることがしばしばある。
 「自由詩」とは言っても、実際は、詩人は自らの形成した詩作工程に束縛され、認識の精度や表現の範囲などはそれぞれの詩作工程によってそれぞれ制限される。それぞれの工程にはそれぞれの長所・短所があり、完璧な詩作工程など存在しない。笹野の詩作工程だったら、詳細な描写や認識、観念的な世界把握などの点においては弱い。自らの詩の足りない部分を補おうとしたら、詩人は新たなる詩作工程をものにしなければならない。もちろん新しい詩作工程にも欠点はあるわけで、詩人の技能習得の旅に終わりはない。

完成度の高いものを目指すんではなくて、『自分の詩』を目指すようにしたいなあって。迷ったり、間違えたりしながらでも自分の足で歩いていく過程が、わたしの詩の道とちゃうかしらんって
        (『あとがきにかえて』より)

ここで「自分の詩」は、あたかも唯一絶対の何物かであるかのように語られているが、「自分の詩」は複数あってもかまわない。むしろ複数あるべきである。実際、「迷ったり、間違えたりしながらでも自分の足で歩いていく過程」において、複数の詩作工程を身につけることは大いにありうるし、そうあるべきである。複数の詩作工程を体感した方が、詩についてより深く客観的に理解することが可能になるからである。

4.生き物としての詩集
作品名:詩の批評 作家名:Beamte