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詩の批評

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笹野裕子「今年の夏」をめぐって



1.対位するものから浮遊する散文

私は歩いていた
標識のない道であった
ときに景色が
逆に流れる場所がある
見知らぬ森
        (『道標』より)

 散文の特徴の一つとして結束性(cohesion)の強さというものがある。要するに文と文とのつながりの強さである。ここではまず結束性とフレーム(枠)の関わりについて簡単に論じてみる。ちなみにフレームとは、語などの意味の背景にある経験や認識のことである。
 引用部では、まず私が歩いていたことが示される。そして、どのような場所を歩いていたかを、後続の詩行が付け加えている。「私は歩いていた」は一つのフレームを作り出し、そのフレームには、「私」が誰であるか、どんな人であるか、「私」はどのように歩いていたか、どこを歩いていたか、歩いているときどんな出来事があったか、そういう付加的な状況が背景として潜在している。「私は歩いていた」という詩行が書かれたとき、そのような様々な付加的事象が様々な強さで「私は歩いていた」に結びつく。「私は歩いていた」は様々な関連する事象が配置される一つの「場」を作り出すのであり、この「場」が「私は歩いていた」のフレームである。
 詩の一つの連の結束性が強いということは、その連で主題となっている事象のフレームに、それぞれの詩行が典型的なあり方で収まっているということである。この場合、詩の散文性は強くなる。Aが「Bが歩いている」状況を経験するとき、通常、AはBの属性や歩く場所や周囲の状況もまた同時に経験する。よって、「私は歩いていた」という認識には、経験則上「私」の属性や歩く場所や周囲の状況の認識が、強く(典型的に)結合する。それに対して、例えば「洞窟は濡れていた」は、「私は歩いていた」の展開するフレームにおいては非典型的である。つまり「私は歩いていた」との結合が弱い。「私」が洞窟を目指しているような特殊な事情のない限り、「私は歩いていた」にまつわる状況として「洞窟は濡れていた」は経験されないからだ。
 さて、引用部の主題は「私は歩いていた」であり、2行目の「標識のない道であった」は歩く場所であり、3行目と4行目「ときに景色が/逆に流れる場所がある」は歩く場所の属性であり、5行目の「見知らぬ森」は俯瞰的に見た歩く場所である。引用部に現れる詩行は、引用部の主題の展開するフレームに典型的に収まっていて、それゆえ引用部は結束性が強く、すなわち散文性が強いといえる。
 笹野は上記の意味で散文性の強い詩を書いている。だが、笹野の詩には、単なる散文であることを拒絶する構造的特性がある。それは、書かれた詩行の連なりと、書かれざる常識的な認識、さらには書かれた詩行のパラフレーズとの対位構造である。非常識的認識である「ときに景色が/逆に流れる場所がある」、この詩行が読まれる具体的な時間経過の下方では、「景色は常に後ろ向きに流れる」という常識的認識が流れている。さらに、意味をつかもうとして何度か「ときに景色が/逆に流れる場所がある」を繰り返して読んでいるうちに、その詩行の解釈、たとえば「主体が後ずさりすることを強いられる場所があるという意味である」がその詩行の下方に流れたりする。
 このように、笹野の詩においては、詩行の流れが幾筋かに分岐し、もともとの詩行の流れから分岐しもともとの詩行に対位するものとして、常識的認識や可能的解釈がもともとの詩行とともに流れてゆく。「ときに景色が/逆に流れる場所がある」は、顕在的な詩行として意識の表層に現れやすい。それに対して、潜在する常識的認識である「景色は常に後ろ向きに流れる」や、可能的解釈に過ぎない「主体が後ずさりすることを強いられる場所がある」は、意識の表層に現れにくい。いわば、非常識的認識である顕在的な詩行は、常識的認識や可能的解釈を底辺に控えさせ、そこから自在の距離をもって浮遊しているのである。このように、顕在的な詩行を主旋律として、それに対位するものとして常識的認識や可能的解釈を分岐させ伏流させるという経時的構造は、単なる散文よりも詩に多く見られる構造である。笹野の詩は、上記の意味で詩的である。

2.主体と客体との豊穣な入れ替わり

人にたくさん会った日は
耳がかゆい
詰まった言葉を全部取り出してしまわないと
すっきり眠れない
とくべつ念入りに耳そうじをする
ティッシュペーパーを一枚広げ
耳から剥がした言葉を並べていく
(中略)
きっとどこかで私の言葉を剥がす人がいる
深い闇をはさんで
私はその人と向き合う
その向こうでも
耳そうじをする人
そしてその向こうにも
        (『剥がす』より)

 引用部の前半では、言葉を発する主体は他人達であり、言葉を剥がす主体は「私」である。客体として言葉を受け取るのは「私」であり、客体として言葉を剥がされるのは他人達である。だが、引用部の後半では、前半における主体が客体になっている。引用部の後半では、言葉を発する主体は「私」ほか複数人であり、言葉を剥がす主体はある一人の他人である。客体として言葉を受け取るのはある一人の他人であり、客体として言葉を剥がされるのは「私」ほか複数人である。引用部においては言葉を剥がす者と剥がされる者が交代しているのだ。このような主体と客体との交代は、ほかにも、『道標』(鳴き声を聴く者と鳴く者が交代する)、『なまえ』(見つける者が見つけられる者になり、なまえを知る者がなまえを知られる者になる)、『スポンジの木』(したたらせるのを見ている者が、自らしたたらせる)、でも見られる。
 主体や客体が入れ替わるパターンを少し分類してみる。まず文に出てくる動詞が自動詞の場合。「Aが鳴く」を基本形とする。

(1)「aが鳴く」(ただしAとaは無関係。)
 例えば「鶏が鳴く」に「雀が鳴く」が後続する場合。ここで入れ替わるのは主体のみであり、客体が登場しない以上、主体と客体の入れ替わりは生じない。

(2α)「aが鳴く」(ただしaはAの鳴き声を聞いているが、Aはaの鳴き声を聞いていない。)
 例えば「鳥が鳴く」に「私が鳴く」(私は鳥の鳴き声を聞いている)が後続する場合。「鳥が鳴く」において、実質的に言えば、「私は鳥に鳴かれている」のであり、「鳥は私に対して鳴いている」。「鳴く」は実質的に他動詞化しているのであり、「鳥が鳴く」→「私が鳴く」においては「鳴かれている者」→「鳴く者」という具合に客体が主体に入れ替わっている。しかし、「私が鳴く」においては、鳥は私の鳴き声を聞いていない。よって、「鳥が鳴く」→「私が鳴く」においては「鳴く者」→「鳴かれる者」という交代が起きていない。主体と客体の入れ替わりは片面的である。

(2β)「aが鳴く」(ただしaはAの鳴き声を聞き、Aもaの鳴き声を聞いている。)
 例えば「タマが鳴く」に「ミケが鳴く」が後続する場合(タマとミケは同じ場所にいる)。「タマが鳴く」において、タマは鳴く者、ミケは鳴かれる者であり、「ミケが鳴く」において、タマは鳴かれる者、ミケは鳴く者である。「鳴かれる者」→「鳴く者」、「鳴く者」→「鳴かれる者」の両方の交代が起こっていて、主体と客体の入れ替わりは双面的である。
作品名:詩の批評 作家名:Beamte