詩の批評
q4 獣の倒したカップの陰に、髪の絡んだ荒れたうなじに、飽きずにつもる埃の元は、あの月だったのに。(「窓の曇り」より)
ここで書かれている埃と月との関係は、一般的に承認されるものではない。部屋の埃が月からやって来たことを信じる人はほとんどいないはずだ。埃が月からやって来たという関係は、主観的に見出された関係であり、客観的な関係ではない。島野はこのような主観性に満ちた生活を描いている。
5.外界と内界の融和
島野のプライベートで孤独で主観的な生活空間には、当然、感覚や認識や疑問や断言など様々な精神活動が様々な色相を帯びて含まれている。だが、島野の生活空間を外界/内界という単純な二分法で整理してしまうのは適切でない。
q5 道の下を流れる水音を踏む。(「春先」より)
例えば、この詩行は一見外形的な状況・行為を描写しただけのようにも思える。だが、本当は水音など聞こえていないのかもしれない。地面の下には地下水の流れがある、という知識から、道の下にも水が流れていることが推論され、それに伴うはずの水音のイメージが連想作用の結果として作者の脳裏に浮かび、それがあたかも本当に聞こえてきたかのように書かれたのかもしれない。つまり、「水音」は外界にあるというよりもむしろ、作者の知識・推論・連想によって内界に生み出されたと考えることもできるのだ。外界にあるかのように描かれたものが実は内界に由来し、内界に由来しながらも外界にあるかのような説得力を持つ。
島野は生活を細かく描くので、当然作品には外界の物質や外形的な行為が多く描かれ、それらの「外であること」が強く主張されている。しかしそれら「外なるもの」の多くが内面世界の働きによって、そのあり方が部分的あるいは全面的に規定されているのだ。
内界と外界の相互干渉により、物質や行為は湿度を持ち柔らかさを増している。島野の生活空間における「外なるもの」は、決して我々を拒絶しない。島野はあらかじめ「外なるもの」のなかに滲み込んでいて、その抵抗力や不可解さを骨抜きにしてしまっている。あるいは、抵抗力や不可解さを我々に親しいものへと変化させてしまっている。そして、我々に親しくなった「外なるもの」は、我々と共生するものとして、一層その「外であること」、そして実在性を強めていく。
6.毛細血管の流れ
島野の生活空間には、隅々まで「文学的な毛細血管」が行き渡っている(それゆえ繊細な作品が可能になっているのだ)。この毛細血管を通って、詩人の血液は、その都度生活空間の適当な局所に流れてゆき、詩行の素を摂り入れて、一つの統一した流れへと流れ込んでゆく。血液の流れ自体は文字として現れないが、文字として現れないところに文字として現れるものを可能とする流れがあることは重要である。
q6 振返る木の枝が増えていく朝に、立ち止まる余裕のない足先ばかりを目にしている。(「雨の駅」より)
まず、島野の生活空間が主観的であることを確認しておこう。木の枝は客観的には振返らない。だが、島野の主観的な生活空間においては、木の枝は振返るのである。そして、木の枝が振返ることをも含む生活空間の至るところに、島野の詩人としての毛細血管が張り巡らされていて、時間や時間の態様、視覚とその対象、またその対象の態様を摂り込んでいくのだ。
だが、島野の作品では、この血流はそれほど順調ではない。まず「朝」の属する領域から「朝」が摂り込まれていると思われる。だが、摂取された「朝」を単独で統一的な流れ(本流)へと送り込んでいるのではない。「朝」を摂り込んだ流れはしばし停滞し(より繊細な表現をするためにそれだけで詩行とすることが留保されるのだ)、今度は「朝」の属していた領域に隣接する領域から「木の枝」が摂り込まれる。そして、「木の枝」を摂り込んだ流れが停滞している隙に、今度は「振返る」「増えていく」が摂り込まれる。その摂取が終わると、ようやく一時的に停滞していた流れも再び動き始め、本流において「振返る木の枝が増えていく朝に」という結合が生じる。島野の詩人としての血流は決して等速のものではなく、適切な材料を得て適切な結合を得るために適度に停滞しながら流れている。生活を異化するためにはこのような停滞が必要なのである。
7.物質との距離としての詩
島野は物質に対して様々な距離をとることで、物質と戯れている。物質の本質や質感をとらえようなどといった無駄な気負いはなく、むしろ先述したように物質を透明化することで、逆に物質の持つ静寂と神秘を照らし出すことに成功している。もはや我々にとって物質は、自由に透過することができ、自由に動かすことができる遊具のようなものである。
q7 体が出来ないことを、しつづける、楽しみ。(「春になる」より)
ここに一方の極がある。島野はここで純粋に精神となっていて、物質を未明の淵へと限りなく深く沈めている。つまり物質を無限遠へと遠ざける楽しみである。
q8 日の射す方向を平気で東だと思う体で、それから北は? 正面。(「美麗島」より)
そしてここにもう一方の極がある。島野はここで思惟を物質に帰属させている。つまり、精神を物質化して作者が物質そのものとなり物質との距離を無化する生命的認識である。
島野にとって詩とは物質との距離であり、島野の生活、さらに生命の営みは、その距離の多様性に反映されている。島野と物質の間にはそれぞれの距離があるわけだが、この距離を満たしているのが彼女の文学的創造力である。この文学的創造力が、物質を触知し(あるいは無視し)、物質との距離を調整し、場合によっては物質に主観性を流し込む。
8.幸福な疑問
冒頭に掲げた「十年の花」を読み返してほしい。島野の詩には強い情緒はほとんど現れない。島野の感情は、平常心を中心にわずかに振動するにすぎない。そして島野の平常心は、どちらかというと幸福の方に傾いている。あるいは、平常心を保てるということがわずかな幸福を生み出している。人間の平常心というものは概して幸福なものである。
q9 なぜ、苦しそうな顔をしないのだろう。(「草の匂い」より)
平常心からわずかにずれる感情として島野の詩に比較的多く現れるのは、疑問に伴う感情である。そして、島野の疑問はたいてい脈絡もなく提示され、基本的に答えが伴っていない。
疑問には齟齬感、不条理感が伴うこともあれば(「なぜ」という疑問の場合)、好奇心や知的な楽しみの予感が伴うこともある。いずれにせよ、知ろうとしても答えが得られないという不満足が伴う。
島野の疑問は不意に気づかれるものであり、またその答えは追求されないので満足させられることがない。これは存在の根源を問うような大げさな疑問ではなく、むしろ、内界と外界とが幸福に融和する液状の空間において、内界と外界との微妙な均衡の不意の破れから生ずるさざ波のようなものである。そして、このさざ波は限りなく遠くまで延々と渡っていく。