詩の批評
島野の疑問は力学の結果であって、力学の根源を問うものではない。だから世界との深刻な違和をきたさない。そして、齟齬感や不満足が伴うとしても、それらの暗い影はむしろ幸福の陰影として幸福の輪郭を際立たせる。島野の疑問はあくまで幸福な疑問なのである。
9.特性の拡散
遊戯の快楽、官能的な蛇行、透明な物質、穏やかな敵意、外界と内界の融和、毛細血管の流れ、物質との距離としての詩、幸福な疑問。このような側面から島野の作品を語ってきた。私は、これらの特性の間に、無理に内在的な連関を見出そうとは思わない。あるいは、これらの特性を根源で支えている唯一の真実のようなものを無理に見出そうとは思わない。そうではなく、様々な特性がそれぞれの方向に拡散しているという現象、そしてその現象を可能にしている力に注目したい。
島野の作品では、一つの城壁(意外と軽い)のように言葉が慎密に積み立てられていて、言葉同士の隙間が圧縮されている。私はそこに、押し縮められたバネの持つような潜在的な起爆力を感じる。だが、普通に作品を読んでいる限り、この起爆力は永遠に開放されることがないようにも思える。バネは永遠に押し縮められたままのようにも思えるのだ。
しかし、これまで見てきたように、島野の作品は様々な方向に向かって多様な相貌を見せている。様々な方向へと特性を拡散させている。この特性の拡散こそが、島野の詩の持つ潜在的な起爆力がひそかに顕在化したものなのではないか。島野の詩は密度があるからこそ、特性を拡散させる必要があったように思えてならない。定型があるからこそ俳句は多様性へと向かおうとする。それと似たような事情があるのではないか。