詩の批評
島野律子小感
0.紹介
島野律子の作品は以下のホームページで読める。
「弱拡大」
http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~babahide/index.html
とりあえず、「十年の花」の全文を引用するので、島野がどのような詩人であるか大まかなイメージをつかんでもらいたい。
風の運ぶ湿気に椅子の上のからだはしらしらと腐った匂いを吐く。自分の力で自分を動かしていられた日々なんてあったはずもないのに微笑んで懐かしがる。薄い影の伸びるテーブルに落ちていく砂に湿気は容赦なく張りつき、からだは水の入った袋と同じになる。花は遠くに咲き続ける。あの角の明かりはやさしい。街燈のない道を通いつづけた長い時。たしたりひいたりだ。父の口癖をどこにしまっていたのだろう。ひとはおかしなことをする。夢のいる眠りが怖かったころに聞いた水音が、突然しみだしてきた服のすそに、埃が吸い寄せられていく。掃除嫌いは治らないよ。そうだ、でも。ここに座り込んでいるいわれなんかないじゃない。冷えた指をまるめて席を立つ。
1.遊戯の快楽
q1 夏の足首に結ぶ雨雲の細い影が引きずる冷めた匂い。(「遠回り」より)
世界の事物が相互に複雑に関係しあっていることを、おそらく島野は熟知している。そして島野は、「匂い」を起点にして、どの関係を用いて、どの事象と接続させるか、そして接続された事象からさらに別の事象へとどのように接続させるか、その選択を楽しんでいる。かくして、「夏」「足首」「雨雲」「影」が、「匂い」へと、多様な関係と間接性において遊戯的に接続されているのだ。天才が楽しみながら難解なパズルを解くように、世界の複雑な関係構造を熟知している島野は、楽しみながらそれらの関係の中の適当なものを選択して詩行として放り出す。島野は詩作においても遊戯の快楽の味をしめているのだ。
2.官能的な蛇行
今の引用部(q1)では、詩行が七曲りに蛇行している。まず「夏」という大きな時空間の広がりから「足首」というその局部へと、全体から部分への移動。さらに地上的な「足首」から天空の「雨雲」への高速の垂直移動。などなど。これらの移動は折れ線によるカキカキしたものではなく、むしろ「蛇行」と呼ぶにふさわしい。つまり、曲線的に、余裕を持って、自然的に、弾性を持って蛇行するのである。
というのも、言葉にまつわる意味や印象、イメージというものは有機的な広がりを持つもので、単純な幾何学ではとらえるのが難しいからである。有機的な広がりから有機的な広がりへと移動する仕方も、それらの広がりの有機性の反射を受けて有機的にならざるを得ない。
さらに、描かれている情景が生活に密着したものであることも、詩行を蛇行させている。生活は我々に親しく、我々の有機的で曲線的な身体や行為、思考などによって日常的に作り出されるものであり、また我々の有機的で曲線的な身体などを日常的に包み込んでいる。生活は人間の自然性の、決して陥落することのない最後の砦である。生活を描く詩行は、生活が有機的で曲線的で自然的である以上、蛇行する。
q2 掃除嫌いは治らないよ。(「十年の花」より)
島野は生活を土台に詩を書いている。生活の事物の持つ様々な距離を一度剥奪し、改めて島野らしい距離を与える。特に、遠くにあるものを近づけたり、近くにあるものを遠ざけたりする。つまり、あまり気づかれないものに気づき、自明なものを対象化したりする。q1だったら、匂いの繊細なあり方に気づいているし、q2だったら、自明な日常の発語を改めて対象化している。
生活を描くので、自身の身体、そして感覚、さらに肉声が詩の中に入り込みやすい。q1だったら、「足首」や「匂い」が身体的・感覚的であり、q2では肉声がそのまま詩行になっている。この身体性・感覚性が、「蛇行」という移動のもつ生命性とあいまって、詩行の蛇行を少なからず官能的にしている。
3.透明な物質
q3 雨どいに身を寄せる濃い色の花びらをはがす道具を、手に入れなければ。(「拭く」より)
ここでは、「雨どい」「花びら」「道具」という物質が登場しているが、それらが複雑に、蛇行的に関連付けられることで、互いの物質性を薄めている。「濃い色の花びら」において、「濃い色の」という修飾語は「花びら」の物質性を強めているが、にもかかわらず、一息で読ませられるパッセージの中で緊密に連なった「雨どい」「花びら」「道具」という物質たちは、互いに存在(あるいは物質性)を主張し合うことによって、互いに存在の強度を相殺し合い、存在を薄め合っているのだ。このような蛇行的な長い修飾においては、物質たちは互いの存在の強度と物質性を打ち消しあい、それゆえ、比喩的に言えば、物質たちは透明度を増すのである。
さらに、今の引用部(q3)では、「道具」のイメージはそのまま直接には伝達されていない。そうではなく、「道具を手に入れなければ」という義務感が直接伝達されている。q3では「道具が存在する」ことや「道具が働きかける」ことが主張されているのではない。つまり、q3における詩行の主体は「道具」ではない。主体はあくまで義務を感じている作者であり、「道具」は作者の手に入れるべき対象でしかない。つまり、q3において一番強度を持っているのは作者の義務感であり、「道具」は対象化されることにより強度を下げ希薄化する。あるいは透明化する。
このように、島野の作品では、物質は緊密に連結されることにより互いに存在の強度を相殺し合い、あるいは主体の精神作用が明示的に物質を対象化し、それによって物質が透明化されていることが多い。
4.穏やかな敵意
島野の詩的な習慣的作用の及ぶ「生活」とは、プライベートで孤独な生活である。他人というもの、社会というものは、何かによって切り落とされてしまったかのように、彼女の詩にはあまり明示されない。彼女は実生活では当然多くの他人たちと関わり、おそらく公的な組織にも所属しているのだろう。だが、彼女の詩空間には、社会的な硬くて疲労させるもの、そして未知の領域を多分に抱懐する他人というものの占める領域が少ない。羊歯植物が湿って目立たない場所でしか生育しないように、彼女は詩の展開する領域をプライベートで孤独な生活領域に基本的に限定している。彼女の詩空間は生活で充満していると同時に、社会や他人の不在で充満している。社会や他人の不在は真空のように鋭く彼女の生活の基底となり、彼女の生活の輪郭を際立たせている。
私はこのような限定に、居心地の良さを感じると同時に、穏やかな敵意を感じる。何事かを選好するということは、他のものを穏やかに排除するということである。そこには穏やかな嫌悪や穏やかな敵意というものが働いている。島野は無意識的に、自分を疲れさせる社会や未知を多く含む他人というものに対して穏やかな敵意を抱いているのではないか。そして、プライベートで孤独な生活領域に限定された詩を書くことで、その敵意の様々な変奏を、詩の裏側の目立たないところに小さく貼り付けているのではないか。
さらに、島野の詩における「生活」は主観的でもある。