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詩の批評

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接触への欲望、虚構による螺旋



 伊藤悠子の詩集「道を 小道を」(ふらんす堂)は静かに充実した石英のような親しさを感じさせる。多くの事象を切り取ってきているはずなのに、なぜか切り口が見えない。切り取られながらも事象は世界と連続していて、余白には、見えない文字で世界がびっしりと書き込まれている。

1.接触への欲望

いつしか
一匹の魚はただ骨となり
一枚の木の葉はただ葉脈となり
ふしぎなことに
骨と葉脈は一致しており
       (「木の葉と魚は」より)

舞踏の列の端の女の人
骸骨に導かれて
鏡を見たまま静止している
(中略)
石畳をのぼって行くとき
わたしのなかで骸骨がひとつ
のぼって行く
       (「ダンサ・マカブラ」より)

 一番目の引用部では、魚と骨が重なり合っている。しかも骨と葉脈はぴったりと重なってしまっている。この接触の快さや安心感、そして複雑なものと複雑なものが一致することの希少価値。そういったものが、移ろいやすい世界の中に、はかない堅固さ、火花状の永遠を生育させている。
 二番目の引用部では、壁に描かれた骸骨と「わたし」の骨とが重なり合い接触している。ここではむしろ完全な接触すなわち同化が実現しているのだ。骸骨と「わたし」の骨は、単に表面同士触れ合っているのではなく、内部をも含むすべての部分がそれぞれ互いに同じ空間を占め、触れ合っているのである。
 何物かと触れ合い、一致し、場合によっては同化する、そのような接触の快楽・安定を人間は欲する。伊藤の作品には、そのような接触への欲望が思いもかけず現れている。そして接触への欲望が詩行の内容を無意識的に導いている。伊藤は詩行において図らずも接触を実現させることで、接触への欲望を浄化しているのである。

あと四回この地の夕空を見たら
あと四回焼き付けたら
私は帰っていく
       (「ピニョーロ通りの八百屋」より)

 視覚の働きと視覚の対象との関係は、「接触」と呼ぶには弱すぎる。だが、見る者が記憶に焼き付けようと対象を凝視するとき、見る者と見られる対象は「接触」する。「接触」と呼べるだけの関係の強度があるからだ。見る者は、見られる対象と強い関係を結ぶとき、見られる対象と「接触」する。

夏のあいだ毎日公園の木陰のベンチに座っていた老いたひとは
きょう日なたのベンチに移りました。
       (「秋へ」より)

 特に隠されていないことを認識するのは「接触」と呼ぶには弱い。だが認識者が、容易に認識されないことを認識するとき、認識者と世界との距離が縮まる。そのような認識は、相対的に「接触」と呼ぶにふさわしい。
 伊藤は物理的な接触だけを求めるのではなく、視覚や認識を介した接触をもすることで、接触への欲望を満足させ、世界のぬくもりに心地よく浸っている。極言すればあらゆる認識は接触であり、ただ、接触の程度の違いがあるだけかもしれない。

2.虚構による螺旋

老人ホームのマイクロバスは
褪色した街の通りをなぞり
街角に立つ老人を拾っていく
(中略)
父が街角に立っている
ベレー帽を被って
母が街角に立っている
煙るような眼差しで
わたしが街角に立っている
遠い松風を聞きながら
       (「静かな晩の食事」より)

 伊藤の詩は日常や異国での心象や風景・人々をスケッチするものが多いが、虚構の豊かな領域へと自らを解放し、現実に対していくつもの平行面を広げるような作品も少なからずある。詩行が現実から虚構へ向かうとき、何かが螺旋状の移動をする。あるいは螺旋として作品の陰に定着する。
 引用部にあるように、父と母と「わたし」が皆老人で同じ老人ホームのバスに拾われていくということは通常ありえない。ここでは、本来異なる時点・地点にあるものが同じ時点・地点で共存するという虚構が作り出されているのだ。
 だから、「わたしが街角に立っている」に至った時点で、読者の認識は直進することをやめ、ねじれる、あるいは螺旋を描く。認識の切っ先は目指すべき定点を失い、螺旋を描きながらさまよい続け、いくつもの仮の定点を擦過する。また、読者の感情もまた、灰色の熱を得ると同時に、わずかに動揺し、認識の切っ先の運動に沿って螺旋を描く。
 さらに、虚構を生み出す作者の精神の運動も、螺旋を描く。現実の情景や心情・記憶に基づく記述から虚構の記述へと飛躍するとき、想像力が心の深みから虚構の世界片を汲み上げる努力をする。この汲み上げはまっすぐ垂直には実現せず、周辺領域を舐めながら螺旋を描く。

丘陵地帯ランゲに 風が吹いていく
ヒナゲシの赤が吹いていく
ハシバミの枝が吹いていく
       (「吹いていく」より)

 「吹く」という動詞の主語は基本的に気体か液体に限られ、例外的に「芽吹き」という表現があるくらいである。だから、「ヒナゲシの赤」が「吹く」というのはまず言語のレベルで論理的に不可能であるし、現実のレベルでも「ヒナゲシの赤」が流体化しない限り「吹く」ことは不可能である。それにもかかわらず「ヒナゲシの赤」が「吹く」と主張することは、流体でないものを流体化させるという意味で虚構である。「ヒナゲシの赤」は流体として、風とともに「吹いていく」のである。このようなメタファーもまた虚構であり、螺旋が伴う。ただ、螺旋の色合いが通常の虚構とは異なるように思える。

3.おわりに

 引き続き「接触」と「虚構」との関係について論じなければならないように思うのだが、紙幅が尽きてしまった。「道を 小道を」は、伊藤自身の「道」を行く足音が聞こえてくるような詩集である。伊藤の詩語を食するとき、それを支える器として、伊藤の「道」がある、足音がある。スプーンと食器のぶつかる音が快い。


作品名:詩の批評 作家名:Beamte