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詩の批評

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殿岡秀秋小論




0.はじめに

 殿岡秀秋は弱い人間である。だがこの弱さは詩人にとって必要な弱さである。まず、殿岡は武装しない。思想や理論や謀略や機知をことさらにめぐらすことをせず、時間や連想の流れの中に素肌で漂い、健やかに手足を伸ばす。武装するということは、外界に過剰に働きかけることであり、また外界から過剰に身を守ることであり、そして感性の自由を大幅に失うことである。外界との親愛に満ちた自由な交渉は、武装しないことで初めて可能になるのだ。次に、殿岡は受動的である。自らに詩を語らせるというよりは、むしろ自らによって詩を語らせられているのである。詩を書くことの気負いが詩に不自然な突起や異物感を生じさせることなく、彼の詩の列にはただ水が流れ落ちるかのような自然なすがすがしさがある。能動的であると、抵抗を克服するときに必ず一種の屈折が起きる。一種のわだかまりが残る。そういうものが殿岡の詩には感じられないのである。そして、殿岡はその感覚が非常に柔らかい。殿岡の感覚には外界を遮断したり反射したり破壊したりする硬さがなく、むしろ外界と融和し混合し睦み合うのである。殿岡は、武装せず、受動的であり、柔らかい、そういう弱さを持っているが、この弱さこそが、彼の詩に自然と友愛と自由をもたらしているのである。本稿では、『日々の終りに』(書肆山田、2009年)を採り上げ、彼の弱さが詩の中でどんな様相を呈していたのかについて述べる。

1.時間と苦悩

過去のあることと、現在の苦悩とが瞑想の中で、出会う。追憶と現在の苦悩の響き合いが、今回の詩集を貫くテーマになっている。
       (「あとがき」)

 殿岡の詩が現在と過去との出会いで成立していることは分かりやすい。だが現在とは何か、過去とは何か、それらが出会うということはどういうことか。そして、殿岡ははたしてそれほど「苦悩」しているのだろうか。彼の「苦悩」という言葉に込められた思いは、単純な「苦しみ悩むこと」以上のもっと豊饒なものなのではないか。

頬の痛みはすぐに消えても
胸のうずきはいつまでも
渦潮の渦は消えても
潮の満ち干でよみがえる

母の手のひらで叩かれた頬を
自分の手で抑えてうずくまる
こころは波に打たれ
ぼくは黒い海に落ちていく
       (「胸の渦潮」)

 現在というものは過剰なものである。現在は、光と色彩と音声と香りと手触りと味わいに満ちていて、その情報量と密度と質の充溢は、人間の容積・能力を優に超えている。そして現在とは瞬間に過ぎず絶えず流れていくものである。人間はだから、過剰な現在を置き去りにしたまま、それを過去に捨て去ってしまう。逆に言うと、人間は自らがとらえきれない現在に置き去りにされるのである。人間が現在を置き去りにし、現在が人間を置き去りにするという、相互の「見捨て、見捨てられる」関係が、人間にとっての現在のあり方である。
 だが、現在は単純に見捨て、見捨てられるわけではない。現在は常に人間に愛されている。だから人間は現在を拒絶するわけではない。現在とは人間にとって最も強度のあるものであり、人間にとっての唯一の実在である。現在とはそれほど価値のあるものであるから、人間はそれをその愛情の先端である認識によってとらえ、そしてそれを記憶の中に、愛情の海の上に、浮かび留まらせようとする。人間は過剰な現在から過去を選び取る。そして選び取られた過去を記憶の海に漂わせることで、自らのより強められた愛情の対象にするのである。
 人間は現在と必然的に出会う。だが人間は価値ある現在と別れなければならない。そこで、お互いに惜別の念を抱きながら見捨て合うが、そのときの形見として記憶が残るのである。人間は記憶をいつまでも愛玩し続ける。現在に対する愛情は比較的無差別で薄いものであるが、過去に対する愛情は、差別的で強いものである。
 引用部を見ると、殿岡は母に頬を打たれた記憶を書いている。母に打たれた瞬間、殿岡にとってその経験はあまりにも過剰であり、それをどうとらえてよいかわからなかっただろう。どうとらえてよいかわからないままその瞬間は去っていき、だが、それほど衝撃的な瞬間であったから、殿岡のその瞬間に対する愛情も強かった。それは選び取られ、細部を削ぎ落とされ、強度を落とされて記憶の中に入り込む。だが、記憶として愛玩されるにふさわしいように歪められなければならなかった。「ぼくは黒い海に落ちていく」という詩行は、まさに、現在が記憶化する中で、現在から失われたものを、殿岡がその過去への愛情ゆえに新たにこしらえた詩行だと言えよう。つまり、彼が頬を打たれた瞬間には、黒い海に落ちていく感覚はなかったのかもしれない。だが、彼が現在に見捨てられ、過去が矮小化し、もともとの過剰さを失ったとき、せめてその過剰さを回復しようと、過去をゆがめ、過去を創作し、過去を愛するにふさわしく装飾しているのである。すなわち、過去の中に現在の視点からの修正が含まれているのである。
 だが、現在と過去の出会いとは、現在の殿岡が過去を「かつての現在」の形見として愛玩し、過去を現在の視点から加工する、それだけの関係ではない。過去が、過去そのものではなく、姿を変えて現在化する、それを殿岡が現在の中で感じ取る、そういう関係もある。引用部には、「頬の痛みはすぐに消えても/胸のうずきはいつまでも」とある。母に打たれた過去は、「胸のうずき」として姿を変えて、殿岡の現在の中にいつでも入り込んでくるのである。過去が姿を変えて現在化するためには、人間の一種の生理を介さねばならない。追憶という心理だけでは現在と過去の遠近法を破ることができない。その場合、「うずき」というものは、最も過去を現在化するにふさわしい感覚である。「痛み」では現在的すぎるし、「わだかまり」では過去的すぎる。まさに過去の引力にひかれながらもなおも現在に顔を出さずにはいられない「うずき」こそが過去と現在を生理的につなぎ、過去を現在化するのに最も適している。
 さて、殿岡によって現在が見捨てられ、現在によって殿岡が見捨てられ、それでもなお殿岡は現在を愛し、現在の中からさらに愛すべきものを過去として強く愛し、また彼は現在の視点から過去を加工するとともに過去も現在化する。そんな中で殿岡の「苦悩」とは一体何であるのだろうか。それは彼の詩に頻出する「母」のモチーフを抜きにしては語れない。

  母の愛を求めて
  得られなかった飢えに
  ひび割れてできた胸の隙間へ
  きみの言葉が落ちてしまった
  もともとその空洞を埋めて
  しなやかな胸になるために
  きみといるのではないか
       (「悲しみの小石」)
作品名:詩の批評 作家名:Beamte