詩の批評
詩行を求めて虚無をさまよう段階では、ボードレールは虚無と和睦し、高塚は虚無と敵対する。一方で、詩行を得てそれを虚無に投げ込む段階では、ボードレールは虚無に対して無遠慮であり、高塚は虚無に対して礼節を尽くす。
2.6.さよならパリ
さて、ここで内部と外部の境界で起こっていることをまとめよう。高塚もボードレールも、攻撃性と残酷さと愛情を備え、音楽性のある詩を書き、無から創造したものを無へと投げ込んでいる。ただ、その態様が微妙に異なっている。
両者に共通するのは、世界や自己と積極的にかかわっていこうとする激情である。それが一方では攻撃性として現れ、他方では愛情として現れる。それは、両者が世界や自己に対して自覚し独立した者であるからだ。虚無に飽き足らず、そこから何かをつかみ取ろうとする者であるからだ。世界や自己との距離が大きいほど、世界や自己は強く対象化され、深い関与の対象となる。
ボードレールが倦怠を嫌ったのは、倦怠が自己が世界に埋没して世界からの独立性を喪失した状態だからだ。おそらく高塚も倦怠を嫌うだろう。そして、高塚が自らの詩集を「さよならニッポン」と題したのも、ニッポンという自己であり世界であるものへの愛情と攻撃性を示すためだと思われる。さよならするということは、相手に対する拒絶であると同時に相手に対する関与でもある。また、何か偶然的な事物の介入により、愛するものと別れなければならなくなり諦めることでもある。ボードレールも、自己であり世界であるパリへの深い激情を込めて、自らの詩集を「さよならパリ」と題することも可能だったはずだ。
3.もうひとつの図式
F1は、高塚が外部にいながら内部を描いたのに対し、ボードレールは内部にいながら外部を描いた、と主張する。
だが、まず、高塚は内部に投げ込まれた自分の詩の言葉に対しても、それと激情的に深く関与することで、外部としての自己の中に取り込み、その言葉のすぐ外側に外部を作ることが可能だ。また、外部にいる自己のあらゆる場所を起点にそこに内部を作り、それぞれに独立した内部を無数に作りうる。それは彼の詩の優れた不連続性から導ける。
次に、ボードレールは、外部にあるあらゆる事象を深く愛しまた攻撃することによって、その近傍に自己すなわち内部を作ることが可能だ。また、彼のあらゆる内部は内部として自足し倦怠に陥るのに飽き足らず、常に外部を求めそのすぐ外側に外部を作りたがる。
つまり、両者の位置する空間においては、ともに、あらゆる場所に内部と外部が併存する。そこで、次のような図式が導ける:
F2.高塚もボードレールも、すべての空間に瀰漫する。その空間においては無限小の内部が外部に包まれて無限に敷き詰められている。つまり、あらゆる場所が内部でも外部でもある「境界」となった空間に、両者はいる。
両者の位置する空間はあらゆる場所が境界であり、それゆえあらゆる場所が詩なのである。