詩の批評
詩の音楽性は、従来(1)感情的側面、(2)聴覚的側面で語られてきたように思う。まず、(1)詩の展開するイメージの変転や劇的要素が惹起する感情的印象が、音楽を聴いたときの感情的印象に類似する、そういう意味で詩の音楽性が語られたりする。次に、(2)詩における韻律や詩を音読したときの耳触りが、耳に心地よいという意味で音楽と類似する、そういう意味で詩の音楽性が語られたりする。
だが、私はここで、(3)構造的側面から詩の音楽性について語ろうと思う。音楽とは、不連続な音たちが、人間の感性に照らして心地よくあるようにという規範に従って、メロディーや和音を形成するものである。この(1)構成要素の不連続性と(2)構成要素を連結する際の規範性、これが音楽の構造上の特徴であると思われる。
港は、人生の闘いに疲れ倦んだ魂にとって、魅力ある休息所である。空の無窮、雲の移動し行く建築、海の移り変る色彩、灯台の灯の燦き、それらは、飽くことなく眼を愉しませるために、巧妙にしつらえられたプリズムである。
(『パリの憂愁』「港」)
まず単語はみな不連続である。「港」「は」「人生」「の」、みな不連続である。だが、人間が文章を読むとき、単語間の不連続性は特に意識されない。むしろ、それまでの経験や言語経験に文が即していれば、人間は単語間に連続性を感じる。「人生の闘いに疲れ倦んだ魂」というなんの蹉跌もないフレーズに対し、人間は連続性を感じる。
それに対して、論理的・物語的に等置にあるものが列挙されているとき、人間はそこに不連続性を感じる。論理や物語の筋道通りに進めば文は連続的だが、列挙においてはその筋道が複線化するからである。「空の無窮」「雲の移動し行く建築」「海の移り変る色彩」「灯台の灯の燦き」、これらは論理的・物語的に等置であり、その列挙は不連続感を生む。つまり、詩の音楽性の構成要素は単語というよりはむしろイメージであり、イメージの不連続なつながりが心地よいメロディーを生む。そして、それら列挙されたイメージは「プリズム」という不連続なイメージによって比喩されることによって、心地よい和音を生む。つまり、ボードレールにおける詩の音楽性は、(1)描写や修飾の列挙による不連続なイメージで構成されたメロディーと、(2)それらのイメージを比喩で別のイメージと重ねることにより形成される和音、このような構造により説明される。
顔の巣の中で、弔鐘は鳴りやみ、列車の過ぎた唇となり、窺う、時折浮いては沈む母の仕組み。
(『さよならニッポン』「美しすぎて」)
それに対して、高塚の詩においては不連続性の作り方が多少異なる。確かに列挙や比喩による不連続性はある。「顔の巣」の中で「弔鐘」や「唇」が列挙されているが、列挙されているものの間の関係が希薄なのである。ボードレールにおいては、列挙されているものは港にあってしかるべきものという括りに収まっていた。「港」という概念に典型的に結びつくイメージが列挙されていた。それに対して、高塚の詩においては「顔の巣」の概念と「弔鐘」「唇」は関係性が極めて希薄である。つまり、列挙によって作り出される不連続性の程度が大きい。
また、高塚の詩においては比喩による和音の作り方も異なる。「母の仕組み」とあるが、通常母について仕組みが語られることはない。母とは子を産み育てる人間であり、仕組みとは機械的な物の成り立ちである。「母の仕組み」という連結においては、「母」と「母の機械的・構造的側面」が重なり合い、「機械的・構造的側面」が読み手に意識されることによりこの連結が媒介されている。つまり、通常は連結されない「母」と「仕組み」を連結することにより、その媒介項としての「母の構造的・機械的側面」を生み出し、それが「母」「仕組み」と重なり合って和音を形成するのである。
そして、今見たとおり、「母の仕組み」というイメージは、そのイメージ内部で不連続性を内包している。「母」と「仕組み」は「構造的・機械的側面」により媒介されなければいけないほど不連続なのである。
さて、これらのイメージ間やイメージ内部での不連続性によりメロディーや和音が形成されているわけだが、高塚においてメロディーや和音は決して心地よいものではない。それは、(1)列挙の不連続性の程度が大きいこと、(2)イメージ内部でもすでに分裂が起きていて構成要素がそもそも不純であること、(3)比喩による和音が必ずしも自然に形成されてはいないことによる。ボードレールの音楽が印象派のような心地よい印象を作り出す友愛的な音楽であるのに対し、高塚の音楽は、セリー音楽のようにメロディーや協和音を否定して不連続に跳びまくる攻撃的な音楽である。
2.5.虚無の充填
現在はなぜ生まれるのか。世界は過去で終わっていてもよかったはずである。にもかかわらず、次から次へと現在が生み出され、その現在が生み出される状況とはまさに虚無が充填される状況である。現在を生み出している者が何者かは知らないが、その現在を生み出すのと同じ作用を詩人は詩作行為において行っている。
現在を生み出している者は、単純に過去を参照してそれと整合するように虚無を充填しているのかもしれない。だが、詩人の虚無との関わりはもっと深い。詩人は虚無を参照した上で虚無を充填しているのである。つまり、何もないところから詩行のきっかけをつかみ取り、それを何もないところへと投げ出していく。
彼女が、眼もあやな豪奢な宮廷服を纏い、夕暮の美しい大気に包まれて、広々とした芝生と泉水とに面した宮殿の大理石の階段を、しずしずと下りて来たとしたなら、どんなにか綺麗だろう!
(『パリの憂愁』「計画」)
蝉から時雨れていく。いずれから望まれ暮れていくか、という息において、一斉に鳴き始める。
(『さよならニッポン』「サマータイム」)
ボードレールが「彼女」の行為を想像するとき、その想像は「無からの創造」に近い。ボードレールの想像力はしばらく虚無をさまよった上で、宮廷服を纏ったりするイメージをつかみ取ってくるのである。同じく高塚も、「いずれから望まれ暮れていくか」という蝉と関係の薄い詩行を虚無からつかみ取ってくる。
だが、両者ともさまよう場所は同じ虚無であったとしても、さまよっている際の心理状態は異なっている。また、詩行をつかみ取った後、それを手放す際の心理状態も異なっている。ボードレールは希望に満ちたさまよい方をしている。一度イメージをつかんでしまえば一気にそれを無反省に並べていける。それに対して高塚は希望と絶望をともに抱きながらさまよっている。一度イメージをつかんでも、それが自らの許容する詩として成立するかどうか分からないからだ。高塚はせっかくつかんだ言葉でも時には破棄し、それを採用し並べるときも慎重に並べていく。