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詩の批評

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 ボードレールが攻撃性を文脈の中で説明し、また攻撃性の余波を意識していたのに対し、高塚はむしろ文脈自体を攻撃し、攻撃性を独立させ純化させることで、その攻撃性の引き起こす結果に対して責任を負わないのである。これは高塚の詩の内部性=有限性にふさわしい。高塚は自らの攻撃性を有限化することで逆に純化している。それに対してボードレールの攻撃性は外部性=無限性を持っていて、外界の文脈と接合されることで、説明や責任の無限の連鎖の中に組み込まれていく。それゆえ、高塚の攻撃性はその衝動、つまりいまだ何物とも関わらない段階において優れていて、ボードレールの攻撃性はその結果、つまりもはや様々なものと関わってしまっている段階において優れている。
 いずれにせよ、高塚とボードレールには攻撃性という共通点があることは疑いがない。ただ、その現れ方が、高塚においてはモチーフとレトリックの両次元において有限的・純粋であり、ボードレールにおいてはモチーフの次元で無限的・不純なのである。ボードレールのレトリックからは攻撃性よりはむしろ愛情が感じられるが、これについては後述する。

2.2.残酷さ

 「残酷さ」という言葉を、私は「攻撃性を自覚しながらあえて攻撃すること」の意味で使いたい。攻撃性を自覚するとき、人はそれに対して「やってはいけない」という無意識の反発を抱く。攻撃性を自覚しながらあえて攻撃するということは、攻撃の対象を攻撃するだけでなく、その「やってはいけない」という心理的障害を破壊することでもあるのだ。その意味で、故意のある攻撃こそが真に残酷だと考える。そこには二重の攻撃があるからだ。
 2.1.で見たとおり、高塚の攻撃性は文脈に依存せず独立しており、その衝動と行動の即自性・完結性に特徴がある。その攻撃性の意識、すなわち残酷さは、それゆえ独特の特徴を帯びてくる。つまり、攻撃性を抑止する「やってはいけない」という心理的障害は極めて弱まってくる。その一方で、攻撃の快感やレトリックの快感が彼の意識を深く満たしていく。攻撃してはいけないという抑止力と、攻撃の快感を天秤にかけたとき、この純粋な攻撃においては攻撃の快感の方が勝利するのである。するといつのまにか「攻撃してはいけない」のではなく「攻撃すべきである」という義務が生じてくる。高塚の残酷さは、「攻撃性を自覚しながらあえて攻撃すること」であると同時に「攻撃性を自覚しているが故に進んで攻撃すること」であり、この両者の混合こそが彼の残酷さの特徴である。
 それに対してボードレールの攻撃性は文脈に依存していて、説明や責任の連鎖の中に置かれている。彼は自分の攻撃性について責任を負うが故に、それを説明し正当化しなければならなかった。彼の残酷さの中にも「攻撃性を自覚しているが故に進んで攻撃すること」が含まれているが、それが彼の残酷さに入り込むには説明や正当化という迂遠な道筋を通っているのである。
 つまり、高塚とボードレールの残酷さは、純粋な(1)「攻撃性を自覚しながらあえて攻撃すること」ではなく、そこに(2)「攻撃性を自覚しているが故に進んで攻撃すること」が混ざって緊張した複合体である。だが、高塚にとってこの混合はごく自然なものであり、(1)が弱まると同時に(2)が強まっているのに対し、ボードレールにとってこの混合は、説明や正当化によって辛うじて勝ち得、それを失う不安と常に戦わなければならない迂遠なものであり、(1)という本来の残酷さがそれほど弱まらず、むしろそれと不断に戦わなければならない。

2.3.愛情

 ドロテは進む。その豊かな腰の上の、細りした胴体をものうく揺りながら。明るい薔薇色をした、ぴったりと身体に合った絹の上衣は、彼女の皮膚の暗色の上に鮮やかに際立ち、すらりとした肢体、くぼんだ背、尖った乳房をくっきりと彫り出している。
                (『パリの憂愁』「うるわしのドロテ」)

百合愛ず、日と浦隠る炎に成り果せて、主なき厩の爪弾く書損に合す。勘定違いの発話、然も芸閣より垂れる階に五指を立て、頬に齟齬を埋む、姫。
                (『さよならニッポン』「姫」)

同じく少女を描いたこの二つの部分は、どちらも少女を愛撫するかのように丁寧に修飾しているという意味では類似している。『パリの憂愁』において、レトリックは主に修飾と直喩によって担われている。特に修飾の繊細さと説得力において、ボードレールはそのレトリックの手腕をいかんなく発揮している。この修飾による存在の細部に至るまでの愛撫、ここに両者の愛情が見て取れる。
 そして、修飾というものは皮肉なもので、修飾の対象以外の事物を用いないと十分に実践できない。形容詞だけの修飾は修飾として不十分である。例えばボードレールは、ドロテの純粋な存在だけではドロテを修飾できない。ドロテに対する最も純粋な愛情の表現は、ただ「ドロテ」と書くことだと思う。そこにボードレールの無量の愛情がつぎ込まれている。だが、それではドロテがどれほど愛すべき存在なのかが他者に伝わらない。ボードレールがドロテを愛していること、そしてドロテが愛情に値する存在であること、この二つを他者に伝えるためには、ただ「ドロテ」と書くだけでは足りず、「ドロテの純粋な存在」以外のさまざまな事物による修飾という迂路を辿らなければならない。ボードレールの愛情は、まず無量の愛情が詰まった「ドロテ」という言葉のみに始まる。その愛情を他者に伝えるため、「豊かな腰」「細りした胴体」「絹の上衣」という「ドロテの純粋な存在」以外の事物を用いなければいけない。ここで愛情は拡散する。つまり、ドロテに対する愛情が、その腰や胴体や上衣に乗り移って拡散してしまう。だが、一見拡散してしまったかのように見える愛情が、今度は弁証法的に「ドロテの純粋な存在」に集約され、「ドロテ」という言葉に対するより高められた愛情が表現される。つまり、ボードレールの愛情は、(1)ドロテに集約した状態から、次に(2)ドロテを取り巻く事物やドロテの性質へと拡散し、そのことによって再び弁証法的に(3)修飾によってより高められたドロテの純粋な存在へと集約していく。
 高塚においても、「姫」に対する愛情は、「姫の純粋な存在」への愛情から、「百合」「炎」「五指」「頬」への愛情へと拡散し、その拡散=修飾の彼方に、より高められた愛情として弁証法的還帰を遂げる。だが、高塚においては、修飾による拡散の度合いがボードレールよりも大きい。ボードレールは少女を、少女と経験的に結びつき易い要素で修飾していた。「肢体」「背」「乳房」は当然に「少女」という概念と典型的に結びつく。それに対して高塚は、「姫」を、少女とは典型的には結び付かない要素で修飾している。「厩」「勘定違い」「齟齬」など。つまり、ボードレールの修飾が「少女」という概念を中心に求心的であるのに対し、高塚の修飾は遠心的なのである。高塚においては少女への愛はより遠くへと拡散し、そこから隔絶を経て再び集約するのである。その集約の高速性が、愛情の密度を増している。

2.4.音楽性
作品名:詩の批評 作家名:Beamte