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詩の批評

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さよならパリ――高塚謙太郎とボードレール




0.はじめに

心斎橋を歩いていると、すれ違う人々の肛門の悉くに言葉の端子を捻じ込んでやりたい衝動に駆られることがある。(中略)だがその無数の肛門に捻じ込みたい言葉は、なぜか優しさに満ちている。
             (『さよならニッポン』帯文)

高塚謙太郎の詩集『さよならニッポン』(思潮社、2009年)は、このような(1)攻撃性(肛門に言葉を捻じ込む)と(2)残酷さ(そのことを意識化し文章化する)、(3)愛情(言葉の優しさ)に満ちた詩で構成されている。ここで「残酷さ」とは攻撃を意図的に行っていること、つまり攻撃に故意があることを指す。無論この三つの特徴だけで高塚の詩を語れるわけではないが、この三つの特徴は私にボードレールを想起させるに十分だった。そこで、本稿では『さよならニッポン』と、ボードレールの『パリの憂愁』(福永武彦訳、岩波文庫、1957年)を比較することによって、高塚とボードレールとの共通点や相違点を指摘し、そこで共通点が意外と多いことを示し、生きた時代も人生もスタイルも違う二人の詩人の共通性の根拠に迫る。『パリの憂愁』を選んだのは、高塚の詩に散文が多く、『パリの憂愁』もまた散文詩であること、また『パリの憂愁』からはボードレールの特質が見えやすいこと、による。

1.一つの図式

 家具という家具は、長々と寝そべり、疲れ倦んだ形をしてぐったりと横たわる。家具さえ夢見るような風情を持つ。植物や鉱物と同じく、夢幻に遊ぶ生命を授けられてでもいるようだ。織物の類は声のない言葉を語っている、花々のように、大空のように、沈み行く太陽のように。
              (『パリの憂愁』「二重の部屋」)

翻る乳房の屋根裏で、滞る在来線、或は、心思う軸の傾き、雲級並べ。
              (『さよならニッポン』「姫」)

 この二つの引用部を比較してみよう。ボードレールの吐く言葉は、外界の事物と矛盾しない。つまり、ボードレールの描くものは外界に存在することが可能である。比喩や修飾がかけられていても、「家具」や「織物」は、そのまま外界に存在しうる描かれ方をしている。その一方で、高塚の言葉は外界と矛盾する。乳房に屋根裏はないという意味で「乳房の屋根裏」は論理的に存在しない。乳房が翻ることはそのまま外界には受け入れられず、姫が身を翻すことで同時に乳房も翻るのだ、という解釈を媒介にしなければ外界に受け入れられない。さらに、雲級とは雲の分類のことであるが、分類概念を空間的に「並べ」ることは外界にとって受け入れられない。
 ボードレールの描くものは外部に存在することが許容される。すると、ボードレール自身はそれを内部から見ていると考えるのが自然だろう。一方で高塚の描くものは外部に存在することが禁じられる。それゆえ、彼の描くものは内部にしか存在しえない。すると、書く主体と書かれたテクストとの存在論的な差異を考えると、高塚自身は内部からはじき出されて外部に居ることになる。そして、高塚は外部を充填することで世界内の存在として世界と交感する。以上から、ここで一つ高塚とボードレールを区別する雑な図式を考案してみよう:

F1.高塚は外部にいながら内部を描く。一方ボードレールは内部にいながら外部を描く。内部は有限で外部は無限だ。内部と外部の流動的な境界にこそ詩が生まれる。

高塚は自らを外部化することで同時に自らを無限化した。彼は外界の文法に制限された有限な存在ではなく、あらゆる言葉を生み出せる無限の存在である。一方でボードレールは自らを内部化することで同時に世界を無限化した。彼は外界の文法に制限された有限な存在ではあるが、外界の文法に従うことによって、無限の外界を探索することができるようになった。ボードレールにとって外界の文法は無限への橋渡しなのである。
 さて、F1のもとで境界や世界というものはどのような位相にあるか。ボードレールの場合は単純である。ボードレール個人の精神が内部を充填し、その精神が外部すなわち世界と接する境界で詩が生まれる。詩は境界を経て内部から外部へと投げ出され、外部の事物と併存しうる。一方で、高塚の場合は事情は異なる。外部を高塚自身が充填すると考え、外部から内部へと境界を経て詩が投げ込まれるとすると、世界の居場所は高塚のいる外部ということになる。つまり、世界は常に外部にあり無限であるが、ボードレールはみずからを内部化し作品を外部化したのに対し、高塚は自らを外部化し作品を内部化した。ボードレールは自己を一応世界から切り離しているのに対し、高塚はまさに世界内の存在として世界と交感する。
 さて、この単純な図式は維持しうるのだろうか。それを検討する前に、内部と外部の境界で授受される二人の詩の在り方について検討していこう。

2.境界

2.1.攻撃性

 私は露台に近寄ると小さな植木鉢を手に取った。硝子屋の姿が玄関の表口に現れるのを待って、彼の担荷の後ろ枠のちょうど真上に、手にした武器を垂直に投下した。一撃の下に硝子屋はその場に転倒し、行商用の大事な財産が、全部、彼の背中の下でこっぱ微塵と崩れ去った。
             (『パリの憂愁』「不都合な硝子屋」)

庭師を夢見ている、乱世の庵で。短刀を持ってくるものを一斬り、返り血浴びる、反物を持ってくるものを一縊り、梁を傷める、杳く日々を喰らう、そういう人に私はなりたい。
             (『さよならニッポン』「黄金」)

ボードレールは、倦怠と夢想の発するエネルギーに従って人生を美しくするためにこのような突発的な攻撃性(ガラスを割ること)を示したと言っている。つまり彼は、詩の内部で、自らの攻撃性を他の自らの属性との関連づけの中で説明している。
 このような明示的な自己言及性は当然高塚の詩にはないが、高塚もまた他人や物に対する攻撃のモチーフを好んで取り上げる(「一斬り」、「一縊り」)。ボードレールは、他にも風刺や軽蔑によって社会的文脈の中で他人を攻撃しようとする。つまり、ボードレールは何らかの文脈の中に自らの攻撃性を位置付けているのに対し、高塚はあらゆる文脈から引き離されたところに自らの攻撃性を置こうとする。さらに、高塚の攻撃性とその独立性は、意味内容の次元だけではなくレトリックの次元でも顕われている。

指で払う。滞った畳なわりの一々。終日、呼吸に譲り、乾く間なく、刷られる傾き。
             (『さよならニッポン』「女房」)

ここでは何を指で払っているのかわからない。指で払われる目的となるものが無残に切断され拒絶されている。また、「一々」とは何の一つ一つなのかも分からない。何の一つ一つなのか、通常の文章では明記されるが、それが切断され拒絶されている。さらに、「傾き」のような体言止めの多用。名詞には本来何かしら言葉が続くはずだがそれが切断されている。この切断・拒絶の攻撃性は、まさに文脈を拒絶することで成立している。
作品名:詩の批評 作家名:Beamte