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詩の批評

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ここではじめに前提とされているのは欲求であり、規範ではない。欲求(目的)を実現させるべく、その手段を模索し、手段を積み重ねる。これは無条件に規範に従うのではなく、目的を志向して行為を積み重ねるのだから、目的倫理学型の推論形式である。この型の推論の流れは、現実に実現されるできごとの流れと逆である。この推論にしたがって惹起される現実の出来事の流れは、「コーヒーを買う」→「コーヒーに対する欲求が満たされる」→「喉が潤される」というものである。つまり、目的手段連関型の推論においては、心理領域においては目的が出発点となり、推論を経て具体的な行為が導かれるが、現実の出来事の流れは、そのようにして導かれた具体的な行為から因果経過に従って目的が実現されるという、推論とは逆の流れである。
 さて、現実の人間の行為は、このように何らかの目的(価値)の実現のために行われることが多い。人間の意思が、具体的な行為から因果系列を経て目的とする状態へといたる事象系列を支配しているというのが、基本的な目的実現型の事象連鎖のあり方である。そうすると、人間の特定の行為に帰属される結果の範囲というものも自ずと限定されてくる。行為論においては、純粋に自然科学的な因果関係ではなく、行為に帰属可能な事象の範囲を限定する因果関係が適切である。
 結果の行為への帰属が問題となるのは、結果が利益もしくは不利益である場合である。石を投げたら転がった、だから「転がった」結果を「石を投げた」行為に帰属させるのは、自然科学的な意味くらいしか持たない。行為論が問題とするのは、自然科学的な因果関係ではなく、価値的な因果関係である。つまり、石を投げたら人を傷つけた、そのとき、「傷つけた」という不利益を「石を投げた」という行為に帰属させる。あるいは、石を投げたら猛犬を撃退して人を救った、そのとき、「人を救った」という利益を「石を投げた」という行為に帰属させる。こういった利益や不利益の行為への帰属が、行為論が問題とする因果関係論である。

2.2.帰属の問題

2.2.1.不利益の行為への帰属

 まず不利益な結果が生じた場合の、結果の行為への帰属方法を考えよう。この点について、日本の刑法学では、相当因果関係説が有力である。これは、まず(1)条件関係(「あれなければこれなし」)を判断して事実的な因果関係を確定した上で、(2)結果を行為者に帰属するのが社会的に相当かどうかを判断する説である。
 「石を投げたら人を傷つけた」例で考えよう。(1)まず、原因を取り除いたときに結果が発生しなかったであろうとき、原因と結果の間に「条件関係」があると言う。この場合、石を投げなかったら人を傷つけなかったであろうから、石を投げる行為と人を傷つける結果との間には条件関係がある。(2)次に、一般人が認識可能だったか行為者が特に認識していた事情をもとに(逆にそうでない事情は判断基底から除いて)、一般人の観点から結果が発生すると言えれば、その結果は行為に帰属することが相当だとされる。そのとき、原因と結果の間には「相当因果関係」があると言う。この場合、石が投げられればそれが誰かを傷つけるであろうことは一般人の見地から予測可能であるから、石を投げる行為と人を傷つける結果の間には相当因果関係がある。よって、人を傷つけた結果について石を投げた人は責任を負う。
 これに対して、「石を投げたら人がそれをよけて車道に飛び出し車に轢かれた」という例を考える。石を投げなければその人が車に轢かれることはなかったであろうから、石を投げる行為と轢かれる結果との間に条件関係はある。だが、多くの場合、人が石をよけて車道に飛び出すことは一般人にとって予測不能だから、それは度外視する。車道に飛び出すことを度外視すれば、車に轢かれるという結果は発生しないから、石を投げる行為と轢かれる結果の間に相当因果関係はない。よって、人が轢かれた結果について石を投げた人は責任を負わない。

2.2.2.利益の行為への帰属

 では、人の行為、特に詩作行為が他人に利益を与える場合はどうか。他人に不利益を与えた者が「非難」されるのに対し、他人に利益を与えた者は「賞賛」される。行為から不利益にいたる事象連鎖が、行為の「危険」の現実化の過程であるのに対し、行為から利益にいたる事象連鎖は、行為の「価値」の現実化の過程である。
 ここで、2.1.で挙げた目的手段連関型の実践的推論を、詩作行為の場合に当てはめて考えてみる。

 私は良い詩集を作りたい
 良い詩集を作るためには良い詩を書かなければならない
 私は良い詩が書きたい
 良い詩を書くためにはこのスタイルにしたがって書くべきである
 私は良い詩を書きたい
 結論:私はこのスタイルにしたがって詩を書く

この実践的推論で、主体が望んでいることは「良い詩集を作ること」である。ここで、(1)その行為の結果として主体が望んでいること、と(2)その行為の結果として一般人が予測可能であること、は異なることに注意しなければならない。

(1)主体が望んでいて一般人も予測可能なこと
(2)主体が望んでいるが一般人は予測不能なこと
(3)主体は望んでいないが一般人は予測可能なこと
(4)主体が望んでいなくて一般人も予測不能なこと

行為のもたらす結果は、以上のように分類できる。主体が望んでいる結果というものは、目的手段連関型の実践的推論の出発点をなすものであり(上の例だったら良い詩集を作ること)、そのような結果に至る過程を行為者は支配し、少なくとも予想しているのだから、そのような結果を行為者に帰属させることに基本的に問題はない。
 だが、(2)のように、例えば主体が誇大妄想的に望んだことがたまたま偶然実現したようなとき、その結果を主体に帰属させることができるだろうか。例えばある詩人が大きな賞を取りたいと望んだとして、誰もがその詩人がその賞を取れるとは思わなかったが、たまたま特定の審査員の奇矯な趣味からその詩人がその賞を取ってしまった。この場合で、2.2.1で説明した相当因果関係を判断してみる。その特定の審査員がその詩集を選ぶことは、詩人自身が特に認識していたわけでもなく、また一般人が予測できないことだから、その事実は判断材料から除かれ、そうするとその詩人が賞を取ることはなくなるから、その詩人が詩を書いた行為とその詩人が賞を取った結果の間には相当因果関係がなく、その賞はその詩人に帰属しなくなる。だがそれでよいのか。利益を行為に帰属する場合と、不利益を行為に帰属する場合では、帰属の判断が異なってもよいのではないか。つまり、この場合、賞賛の結果と詩作行為の間に相当因果関係がなくても、賞賛の結果を詩作行為に帰属させてもよいのではないか。
 (3)の場合、詩人自身が高評価を望んでいなくても、それが予測可能なものであれば、多くの読者に感銘を与えるという利益を発生させ、その結果と詩作行為の間に相当因果関係があるのだから、高評価を詩人に帰属させることに問題はない。
作品名:詩の批評 作家名:Beamte