詩の批評
(4)の場合の例として、金子みすゞの例を採り上げよう。金子みすゞは1903年に生まれた童謡詩人であるが、1930年に服毒自殺を遂げ、長らく忘却されたが、矢崎節夫らにより1982年に再び世に送り出され、現在では「わたしと小鳥とすずと」が小学校の教科書に採用されている。金子は、死後50年も経って自分の作品が多くの人に感銘を与えることを恐らく望んではいなかっただろうし、矢崎らが金子を発掘することは一般人に予見不能であったから、金子の詩作行為と現在金子の作品が読者に与えている利益の間には相当因果関係はない。とすると、現在の金子に対する評価は金子には帰属しないことにもなりそうだ。だが、現在の評価を金子に帰属させた方が妥当だと思われる。やはり利益を行為に帰属する場合は、不利益を行為に帰属する場合とは異なる帰属原理が妥当すると思われる。
では、利益を行為に帰属する場合の帰属原理はどのようなものが妥当か。そもそも、刑法学の相当因果関係説は、刑法の行為規範としての側面に着目し、どのような結果を行為に帰責させれば犯罪抑止上効果的であるか、という観点から提唱されているものである。刑法は、行為時に結果が認識可能・予見可能であるのに行為者が敢えて行為するようなケースを禁圧するのであり、それは、個人的・社会的不利益が生じないようにという政策的配慮に基づくのである。つまり、相当因果関係説は、生じる結果が不利益であることを前提として、不利益を防止する観点から唱えられたものに過ぎないのであるから、生じる結果が利益である場合には違った帰属理論が妥当してもかまわないはずである。
利益を行為に帰属する場合には、単純に、行為がその利益を生み出すのにどれだけ寄与したかを考えれば足りると思う。そして、詩が利益を生み出す場合というのは、基本的にその詩が読まれることによって読者が感銘を受ける場合のことである。金子みすゞの場合、彼女の詩作行為とそれが読まれて読者が感銘を受けるという結果が発生するまでの間に、矢崎らによる発掘という寄与が介在してはいる。だが、直接的に読者に感銘を与えているのは金子の詩作行為に基づいた金子の詩作品そのものであり、金子の詩作行為の読者の利益への寄与度は大きい。それゆえ、読者の感銘に基づく賞賛は、金子に大幅に帰属させて一向に構わないのである。
3.結論
詩を書くという行為は、(1)様々なスタイルに従ってなされるものであると同時に、(2)何らかの価値・目的を実現するためになされるものである。
スタイルには選択のスタイルと描写のスタイルがあり、選択・描写の対象と方法は不可分な場合もある。また、スタイルには規範・格率・個性的スタイルがあり、現代詩の詩作現場では、それらのスタイルがダイナミックに相互浸透している。
行為は、その目的実現へと向けた積み重ねに付随して、不利益・利益の結果を生じさせることが多いが、その不利益・利益を行為に帰属させる原理は、不利益の場合と利益の場合で分けて考えるべきである。詩作行為の結果としては読者への感銘付与という利益が主に問題となるが、その際に読者が詩作品自体を読むという行為が介在するため、読者の感銘に対して詩作行為の寄与する度合いは大きい。だから、その作品がいかに数奇な運命をたどろうとも、作品の評価は作者に大幅に帰属させてかまわない。
しばしば「詩を語る」ことの困難さが指摘されることがある。だが、人間の文化の所産として、詩を語りうる様々な明晰な理論枠組は多数存在するのであり、それらを用いて科学的に詩を分析することは可能である。私は本稿においてその一例を示したに過ぎない。容易に語りえぬことはあるとしても、語りうることは語りつくさねばなるまい。