十七歳の碧い夏、その扉をひらく時 <第二章>
「いらっしゃいませ」という声と共に、白いコットンシャツの上に黒いエプロンをかけた五十代くらいの男がカウンターの奥から出てきた。飲み物でも頼もうか迷っていると、入口から鈴の音が聞こえてきた。白崎だ。満面の笑みで近寄ってくる。
「元気そうだね。足はもう平気?」
「最初からたいした怪我じゃなかったから」
「そう? もっと怒られるかと思ったわ。覚悟して今日は来たのよ」
白崎は人の顔色をうかがうような様子で向かい側に座り、まじまじと俺の顔を見つめた。
「やっぱり何度見てもイイ男ね。芸能界デビューでもしたら?」
俺は無言のまま、大きくため息をついた。
「あ、ごめんなさいね。顔の話をされるのは嫌なのよね。忘れてた。もうね、テンション上がっちゃってどうしようもないの。うふふ」
白崎はベージュの細身のジャケットを素早く脱ぎ、椅子の後ろに掛けながら言った。
「この場所よくわかったわね」
「電話で言ってたろ? その通りに来たんだけど」
「アタシの説明じゃわかりにくかったでしょ。たいていの人は迷うのよ」
その時、テーブルの上の携帯から着信音が流れた。白崎は「ほらね?」と言いながら電話を取り、早口でここまでの道順を説明し始めた。すると、一分もしないうちに厚着をした男が現れた。もう五月半ばだというのに、膝まである紺色のダッフルコートを着込んでいる。額から汗を流し、黒ぶちの眼鏡をかけた小太りの男は、俺に熱い視線を投げかけながらテーブルに近づいてきた。
「あなたが大くんよね?」
「あ、は、はい、小倉 大と申します」
「こちらが片桐悠くん。そしてアタシが管理人の白崎涼よ。涼ちゃんって呼んで」
白崎は素早く右手を出し、大に握手を求めた。ところが大はそれを拒否し、「た、大変申し訳ないのですが無理です」と言い放った。そして、おもむろにダッフルコートを脱ぎ、白いTシャツ姿になった。Tシャツにはアニメのキャラクターのようなものがプリントされている。
「いやだぁ、大ちゃんってそういうキャラ?」
「キ、キャラとは?」
「だからぁ、オタク系キャラってやつでしょ」
「あ、あ、あの、今日は握手会だったんです。アニメも好きですが、今一番ハマってるのは桃香ちゃんで……桃香ちゃんのホンモノの手にさっき触れてきたんです!」
「それで? 手を洗わないで過ごすつもり?」
「は、はい」
「そんなんじゃお風呂にも入れないじゃないの。不潔ねぇ。菌の巣窟にでもなりそうだわ」
「い、いいんです!」
俺は大のオタク臭溢れる話し方に悪寒が走るのを感じた。君子危うきに近寄らずということわざがあるが、その通りだ。俺は面倒な人間には出来る限り近づかないようにして生きてきた。今までもこれからもそれを変えるつもりはない。
「大ちゃん、あなたどうしてこのグループに入ろうと思ったの? そもそもアニメ系でもないオフ会なんて、オタク系の子が喜んでくるような場じゃないでしょ」
「僕、実は……実は……」
急に大の様子がおかしくなった。俺の隣にちょこんと座り、赤面してどもり始めたのだ。
「どうしたの? 具合でも悪い?」
「ぼ、僕も片桐先輩と同じ高校に通ってます。近所だから昔から知っておりまして……いつも先輩の事見ててずっと憧れてました。少しでも先輩に近づきたいと思いまして、このグループに入らせてもらおうと」
「もしかして、またもやそっち系?」
俺は嫌な予感がして、大の方を見た。
「あ、あの、そっち系とは?」
「この人、話が通じないわね。悠はあんたがゲイなのかどうかを聞いてるのよ」
「はい?」
「そういうのマジ困るんだけど」
「そうよ、ここはスイーツ好きの男子が集まる場なの。恋愛目的なんてもってのほかよ」
「ま、待ってください。そういうのじゃありません。そもそも僕はBL漫画に出てくるようなカッコイイ男でもないし……。あ、いや、そういう意味じゃなく て……。ただ、その……片桐先輩みたいに成績優秀で何でも器用にこなせて、それにいつも冷静で何にも動じないような強い人間になりたいんです。ただそれだけです」
大は興奮した様子で喋り始め、圧倒される俺らにはお構いなしで話し続けた。
「あ、あとそれから甘いものも大好きです。ぼ、僕の兄は、渋谷の洋菓子店でパティシエをしておりまして。一応、賞とかも取っています」
「パティシエ? お兄さん、スイーツ作ってるの?」
「ええ」
「すごいじゃない! どうしてそれを先に言わないのよ。じれったいわね」
「僕は自分に自信とかそういうの、全然ないんです……。現実社会で生きていくのが怖くて。でも、ある日兄ちゃんに『人生に目標を持て』とか『誰か目指した いと思う人はいないのか』って聞かれて。すごく悩んで考えました。一週間ぐらい真剣に考えて、僕は片桐先輩みたいになりたいって思ったんです」
「俺はただの無気力人間。冷静というよりは、人間に興味がないだけだし」
「それでいいんです。僕もバカな人間たちに右往左往したくない。いつも人目を気にしてビクビクして、イジメられてばかりの人生なんです。自分を守るために厚い壁を作ることに精いっぱいで」
「大変ね。かわいそうな大ちゃん。イジめる奴なんて悠が懲らしめてあげなさいよ」
「加害者にも被害者にも俺は興味ないんだよ。あいにく助ける気はない」
「そんなのってヒドイわ、ねぇ大ちゃん?」
「いいえ、とんでもないです! 片桐先輩がそんな……。僕みたいな奴が先輩とこうして話ができるだけで光栄極まりないことですから。ぼ、僕はとにかく先輩みたいに一匹狼で強くなりたいだけなんです」
「だから、俺は強いんじゃなくて生物一般に興味がないだけ。わかんないかな? そこんとこ勘違して憧れとか持たれても迷惑なんだよな」
「まぁいいじゃないの。悠には同性にも好かれる魅力があるってことよ」
「あ、あの、それに先輩は女子からモテモテですよね。正直、かなり羨ましいです」
「それが嫌なんだよ。女なんてウザイだけだし」
作品名:十七歳の碧い夏、その扉をひらく時 <第二章> 作家名:朝木いろは