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朝木いろは
朝木いろは
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十七歳の碧い夏、その扉をひらく時 <第二章>

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 会計窓口の前に立っていると、ふいに後ろから聞き慣れた声がした。
「あら、片桐君じゃない」
 声のする方に目をやると、担任の小谷が俺の方を見て微笑みながら手を振っていた。
「どうしたの? どこか悪いの?」
「足をちょっと」
「学校でもしばらく引きずってたもんね。大丈夫なの?」
「もう治ったんで」
 小谷は「そう。良かった」と言い、右手を自分の胸に当てた。
「最近、なんていうか……変わったね」
「良い方に、ですか?」
「うん。丸くなった感じ。前はもっと角(かど)があったのよ」
「へぇ、そうですか」
「自分で自分のことって見えないのよね。私もそう。家族に指摘されて初めて気づいたりするの」
「じゃあ俺はこれで……」
「あ、急いでるの? このあと用事でも?」
「いや、用事はないですけど家に帰ろうかなと」
「もし迷惑じゃなかったら寄って行かない?」
「え?」
「病室に。うちの父の」
 小谷の後ろについて個室へ入って行くと、頬のこけた土気色の老人がベッドに横たわっていた。七十、いや七十五くらいだろうか。痩せた背中を向けて窓の外を眺めていたが、俺たちが入ってきたことに気づいて途端に機嫌の悪そうな声を出した。
「誰だ貴様は」
「父さんそんな言い方は失礼でしょ」
「ふん。勝手にワシの部屋に入れるな」
 いかにも偏屈そうな爺さんは、俺の顔を一瞥しただけでまた窓の方を向いた。
「いいじゃないの。ここは病室なんだから」
「いらん口を叩くな」
「こちらは片桐君。うちの学校で一番優秀な生徒なの。頼んで来てもらったんだから」
 爺さんは喉をピーピーと鳴らしながら何かつぶやき、窓の方を向いたまま大きく息を吸った。その時、運悪く痰が詰まったのか肩を大きく揺らしながら咳をし始めた。
「片桐君、悪いけど飲み物買ってきてもらえる?」
 小谷は申し訳なさそうな顔でポケットから小銭を出し、俺の手に乗せた。
 なんで俺がこんな偏屈爺さんの相手をしなければならないんだろう。自販機に行くフリをしてそのまま帰ろうか――。でも小銭を受け取ってしまったし……。数分の脳内葛藤の末、炭酸飲料とコーヒー、ミネラルウォーターの三本を腕に抱え、俺は病室へ戻っていった。
「ひどいじゃないの!」
 病室のドアを開けようとした時、小谷の金切り声が飛んできた。
「ワシはもうすぐ死ぬんだ。もう放っておいてくれんか。誰も連れて来んでいいし、お前ももう来るな」
 爺さんの声はさほど大きくなかったが、ドア越しにもハッキリ聞こえた。
「そんな言い方ひどい。私は父さんが心配なのよ。だからこうして顔を見に来てるんじゃない」
「お前は無理をしておる」
「そんなことない。私は……私は……」
「ワシのことは許さんでいい」
「父さん、やめて。もう言わないで。私はただやり直したいだけなのに」
 小谷のすすり泣く声が聞こえてきた。
「泣くなら帰れ」
 爺さんが急に大声を張り上げた。その直後、目から大粒の涙をぽろぽろと零した小谷が勢いよくドアから飛び出してきた。
「先生!」
 俺は慌てて小谷の後を追った。屋上へ向かっているのだろう。ものすごい速さで階段を駆け上がって行く。重い鉄扉を開けると、小谷がうずくまった状態でフェンスにもたれかかっていた。
「先生、さっきの……」
「聞こえてた?」
「少しだけ」
「ああ、恥ずかしい。まさか聞かれちゃうなんてね」
 俺はなんて言っていいかわからず、ただ黙っていた。小谷は顔を見られたくないのか、フェンスの方を向いたまま「ごめんね。もう帰って」と小さく呟くように言った。