30年目のラブレター
迷い道
(夢かぁ~)
夫は私の部屋の隣のリビングで
すでにコーヒーを飲んでいた。
(寝言…
言ってなかったかな?)
昨晩、喧嘩したままだったので
夫は無言で会社に出かけた。
私は寛貴と会う口実ができた
後ろめたさも何もない。
殴られたのだ。
平凡な幸せなんて
幸せじゃない。
夫だって、若い女と浮気したほうが
楽しいだろう。
シャワーを浴び、いつもより
念入りに体を洗う。
少女のように
着て行く服を鏡の前であててみる。
ふんわりした女性らしい服の方がいいのか、
体のラインがキュッと見えるカチッとした服の方が
いいのか…悩む。
いつか身につける時にと、大切にしまっておいた
高価な下着を身にまとい、鏡の前で
手のひらで両胸をちょっと上げてみた。
桜色したリップグロスは甘い香りがする。
長い髪も毛先だけクルリと巻いて…
少しでも若く見えるように。
夫との喧嘩は蚊に刺されたくらいの出来事に思える。
20歳の時、寛貴にもらった香水は
中身が空っぽだった。
最後にもらった真珠の指輪はいつのまにか
リングだけになっていた。
彼の記憶を上書きする日が
ついに来た。
彼の中の私の記憶を塗り替えられてしまうのは
少し寂しい気もした、
綺麗なままの私を忘れないでいて欲しかったから。
そう思った途端、急に戸惑った。
鏡の中の歳をとった私は、笑うと目尻にシワができ
時間が経てば多分隠したシミも見えてしまうだろう。
何年も家事をしてきた指も年をとってしまった。
昔の彼に会うだけなのに
人生の岐路に立っているような
まるでこれから人殺しでもするかのような
迷い道に入り込んでしまったようだった。
約束の時間が近づくとともに
寛貴に会うのがとても怖くなった。
家の鍵を持つ。
ストールを巻き、パンプスを履いた。
ハンドクリームを塗り、手袋を付ける。
準備は出来たのに…
もしかしたら、もうこの部屋に戻らないかもしれないと思うと
少し淋しい。
寛貴に帰らないでと引き止められたら
私はもう、ここに帰らないんじゃないかと
そんな予感がした。
刹那…で終わらないような
そんな気がした。
作品名:30年目のラブレター 作家名:momo