プリンス・プレタポルテ
「そりゃ何より。それにしても、こっちを何時だと思っている」
今度の欠伸は殺せず、手の中に消える。なめし革の背凭れに深く体を埋めなおせば、揺れる頭もさっさといつもの状態に戻りそうだった。
「夜中の」
左腕を掲げる。眼を瞬かせても、窓から侵入する光に反射した文字盤は一向に見えない。
「二時くらいだ」
「知ってる」
食いしばった歯の奥から、アーネストは吐き出した。
「俺も今キューバに来てるんだ」
「何をしに」
思わず身じろいで、グレゴリオは尋ねた。
「向かいのパライゾにいるのか」
「違う」
何かが破裂する。身を捩り窓のほうを振り返ったが、先ほどと変わらぬ廃墟が見えるばかり。
「ああ、くそっ、なんてこった」
「おい、大丈夫か」
グレゴリオの問いに答えることなく、しばらくの間アーネストは受話器の向こうにスペイン語でがなりたてていた。
「アーニィ」
「ここがどこかよく分からないが」
「何だって」
混ざるノイズに向かってグレゴリオはうめいた。先ほどの音が受話器から聞こえたことを知り、背筋が凍る。
「よく分からない」
「ハバナか?」
「そうならばどれほど良かったか!」
叫びに近い悲鳴でアーネストは答える。
「今そっちに向かってる。クソッタレ二等兵が、居眠り運転で、トラックごと畑に突っ込みやがったのさ! 横転して、動けない」
「なに?」
「横転だ、横倒し!」
「いや、でもそれは不幸中の幸いかもしれないな」
受話器から耳を離し、グレゴリオはため息をついた。
「今来ちゃまずい。小競り合いはまだまだ続いてるし、危険すぎる」
「小競り合い!」
「流石に外国資本のホテルにまでやってくることは無いが、根こそぎ略奪されてるらしいぞ。逃げるバティスタ軍と、統率の聞いてない革命軍が」
窓の外から目を外し、グレゴリオはグラスの縁から零れそうになるほどスコッチを注ぎ足した。
「とにかく今はまずい。悪いことは言わん、しばらくそこにいろ」
煽ったグラスへの違和感に眉を顰める。アーネストは答えなかった。耳元と部屋の両方から襲ってくる沈黙の居心地の悪さに耐え、グレゴリオはじっと言葉を待ち続けた。
「何てこった」
しばらくしてから、アーネストは掠れた声を上げた。
「嘘だと言ってくれ、グレッグ」
「嘘じゃない」
グレゴリオは静かに首を振った。
「全て現実だ」
「ああ、何てこった」
作品名:プリンス・プレタポルテ 作家名:セールス・マン