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プリンス・プレタポルテ

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 プレスまでは到底望めないが、ホテルへ戻るときはそれなりの格好をしておきたかった。私が泥だらけで帰ってくるたび眼に涙を浮かべる少女のために。女を泣かせるのはドン・ファンだけで―尤も彼女は私が演じたスペイン一の放蕩者を大層気に入っているらしいが―大体彼女にそのような役割を求めていない。太り、アルコールを手放せない中年男を万能な御伽噺の王子と思い込んでいる節のある乙女の夢は、出来る限り叶えてやりたいと思う。



 清潔な泡に汚され、静寂を破られた水が抵抗しているのかと勘違いしたが、何のことはない、返事をよこさなかった女が、すぐ傍にいる。気配すらない登場に驚いて顔を上げると、彼女は眼をこらしたまま隙間風のような声を私に吹きかけた。
「あなた、カストロの部下?」
 下から見たときの顎のとがり具合が、ビーと似てい気がした。見ほれたセンチメンタリストの逡巡も待たず、少女はもう一度全く同じ口調で尋ねる。ちょっと待ってくれ、私だって考えているのだ。カストロが放つ眼光。つららの如き鋭利な冷たさ。
「どうだろうね。でも、彼の軍と行動を共にしてる」
 自らの立場と同じく非常に曖昧な顔で笑う。そのまま無理な姿勢で彼女のぼけた眼を見つめていた。素材は、それなりにいいのかもしれない。踝の骨の華奢さなんかは、ストッキングの広告のオーディションに出したら一次通過は間違いない。
 彼女の膝、そろそろ夕暮れに向かう森のざわめきと、紫色の空、鳥の飛び立つ羽音は覚えている。だが、そのとき呟かれた言葉がなんだったか、Americanか、Satyriconか、とにかく飛びつかれて池にドボン、では。


 水底は意外と浅く、腰までしかない。緑の匂いとぬるい水から身体を起こし、しがみつく骨ばった肩に手をかけた途端、情熱的な口付けに祝福される。濡れているのに味気ない。そして、私はむしりとった彼女のシャツにキューバ陸軍の徽章を見てしまった瞬間から、私はドン・ファンの役割を放棄する。だが、一度動き出した手がとまることなどない。張り付く服の不快感、生暖かい水温が絡んでくる脚の熱さえも一定に変えてしまったこと、泥を蹴る足がもつれて一度身体が倒れたとき、彼女のあげた悲鳴がやたらと楽しそうでヒステリックだったのが、馬鹿に印象深かった。