津波シェルターについて
そのままでは海岸に流され波に打ちつけられるので沖出ししなければならず、それにはエンジンを再始動するためにエアーを抜かなければならない。その為にはキャビンに入らないといけないのだが、これが水圧で挿し板がひずみスライドハッチがそれに引っかかり開かず入りたくても入れない。通常だと何てこと無い作業なのだが、これが出来ないのだ。仕方ないのでぶち壊すつもりでスライドハッチを思いっきり蹴飛ばし何とか開けてキャビンに入ると、何もかにもが散乱し水浸しであった。 私はいつも、あれはここ、工具はここ!と決めて置くのだが、そんなことはこの際何にも役にたたなかった。散乱した中から必死で工具を探し出し、エアー抜きを行い再始動することが出来た。その後見た、こちらへ向かってくるあの大きな山のような波は今でも忘れることは出来ない。
そんな経験をすると「何で生きておれたのだろう?」とか「どうして助かったのだろう」と哲学的なことも考えたりすると同時に、誠に自分が引き起こしたことではあるが貴重な体験だったとも思えるわけで、それが災害を考える時の一つの参考となった。少ない経験ではあるが、だから机上で考えるようにはいかないのだといえる。
自然の中に身を置き、その凄さを感じた時初めてどうすべきかを考えられると私は考える。人はハードでは救うことは出来ない、救うのは自分が助かりたいと思うから。そう考えれば津波シェルターが本当にそこに有効で助けることが出来るのか、住民一人ひとりが考え住民が実際どれくらいで避難でき、それで何人が救われるか自ら確かめるはずである。何より最後にドアを閉めるのは誰かという大きな問題が存在する。ただ一方的にこんなハードを作ります、これは住民のためですからと言ったところで人が助からないのはあの田老地区の大きな堤防を見れば分かるではないか?
まず行政は誤魔化さず「助けられないです」というべきだし市民は自助するしかないと気づくべきなのだ。ご自分たちが助かりたいと思うなら、自分達がまず考えなさいと教えるのが行政の責任なのである。それは無責任なのではなく真実なのです。その上できちんとした情報を提供し分析し私たちはこの方法にすると決めたものに補助をするというのならこれは分かる。しかし一方的に提供したところで人は思うように動くはずは絶対に無く、つまりは税金無駄使いと被害を増やすだけだと私は考える。
なぜこの住民が少ないところを選んだかと考えると、その時が来て被害が出ても目立たず、責任逃れができ、尚且つ防災をやっているとPRでき、一番は土建屋の仕事が出来るからであろう、そうでなければもっと理論の通じる場所でなければならないはずで、ここは理論が成り立たない。
仮に10mの津波が来るとする、救命ボートに避難しそれが10m持ち上げられ手まりのごとく10m落とされ乗っていても助からないのであれば意味は無いが津波が10mであっても流されて助かるのであればそっちが何倍も安く確かで住民の為である。トンネル掘って2億数千万かかるそうな、それの対象が200戸だと一戸当たり100万円以上になる。それなら各家庭に救命用ボール設置するほうが費用は1/5で済みもっと確実ではないだろうか??現に東北の津波の際破壊されて沈んだ小型ボートであっても少なく沈んだ船は水が入ったからなのである。
作品名:津波シェルターについて 作家名:のすひろ