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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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「こんなことを言う私を、源さんもお民さんも鬼のような奴だ、浅ましい奴だと軽蔑するだろう。自分だけ助かれば、他人はどうなっても良いと思う卑怯な男だと思われても仕方ない。そりゃア、私だって、一度はこんな馬鹿げた話、もちろん断ったさ。いくら徳平店がそのまま残っても、お民さんを犠牲にするくらいなら、いっそのことこのまま取り壊されちまっても仕方ないとも思った。だがね、あっちは思いの外、お民さんにご執心で、それなら一年の期限付きでも良いから、お民さんをよこして欲しいというんだ。源さん、一年だよ、たったの一年だ。一年の間だけ辛抱すれば、皆が泣くこともなく今までどおりにこの徳平店で暮らしてゆけるんだ。それを聞いた時、私は鬼になろうと思った。何としてでも、お民さんに石澤さまのお屋敷に上がって貰うように頼もうと思って、今日ここに来たんだよ」
 言い終わるか終わらない中に、彦六の太り肉(じし)の身体が後方へ吹っ飛んだ。源治の怒りがついに炸裂したのだ。左頬をしたたか殴られた彦六は、勢い余って数歩後ろへと飛び、尻餅をついている。
「お前さん、止めて!! 差配さんを殴ったって、現実は何も変わりはしないよ。差配さんだって、言いたくて、こんなことを言いにきたわけないんだから」
 お民が源治に取り縋った。
「ね? 落ち着いて」
「お前、これが落ち着いていられるか。人の嫁さんを何だと思ってるんだ。お民は玩具(おもちや)でも人形でもねェッ。一年慰みものにして、飽きたら、はいそれでおしまいだなんて、許さねえ。そんな下らねえことを考える奴も頭がイカレちまってるとしか思えねえが、のこのこと説得にくる差配も正気の沙汰とは思えねえ。さあ、もう顔にアザを作りたくなかったら、とっとと帰りな。これ以上、ここにいたら、俺は本当にあんたを殺すかもしれねえぜ」
 喚き散らす源治を見て、お民は彦六に囁いた。
「差配さん、今日のところはこれでお引き取り願えませんか。良人の失礼は重々お詫びします」
 お民が頭を下げると、彦六は哀しげに笑った。
「いや、源さんが怒るのは当然のことさ。罵られても仕方のないことを私は言ってるのは自分でもよく判ってる。ただ、お民さん、私の言ったことの意味をもう一度考えてみておくれ」
「手前(てめぇ)、余計なことをお民に言うんじゃねェッ」
 今にも再び殴りかからんばかりの勢いだ。吠える源治の前に立ちはだかり、お民は彦六に言った。
「お願いですから、今日のところはこれでもう」
 彦六が逃げるように退散した後、源治が怒鳴った。
「お民、塩だ。塩を撒いとけ」
 言うなり源治は部屋の片隅に寝っ転がり眼を瞑った。ふて腐れた子どものようにお民に背を向けたまま、源治はやがて居眠りを始めた。
 お民は何をする気にもなれず、茫としてそんな良人から少し離れて座っていた。
 源治がこの徳平店に引っ越してきたのは今から五年前のことになる。当時、源治はまだ少年の名残をその端整な面に濃く残した若者だった。
 それまで借家に老母と二人で暮らしていたのが、母親が嫁いだ姉の家にゆくことになり、身軽な独り暮らしとなったこともあって長屋に越してきたのだ。
 この五年で源治はわずかながら更に背が伸びた。まさかこの男と所帯を持つことになるとは想像だにしていなかったけれど、ここまで感情を見せる源治というのもまた、考えてみたこともなかったお民であった。
 穏やかで無口、物静かな大人しい男―というのが長屋中の源治に対する一致した評価だったのだ。
 源治は心の中に熱く滾(たぎ)る焔のようなものを秘めている。お民は源治のその見かけからは想像もできないような情熱を好もしく思うが、こんなときはどう対処して良いのか判らず、途方に暮れた。ましてや、源治が不機嫌になっているのは自分のせいなのだ。
 物哀しいほどの静けさが満ちる家の中、お民は背を向けて眠る良人の後ろ姿をやるせない想いで見つめた。
 ただ降り止まぬ雨が軒を打つ音だけが耳に響いていた。

 どれくらいの間、そうやって過ごしていたのだろう。ふと我に返ったときは、四畳半の家の中は既に暗くなっていた。
 ハッとして外を見やると、宵闇がすべてのものを夜の色に染めようとする時刻になっていた。耳を澄ましても、雨音は聞こえてこない。朝から降り続いた雨は漸く夜になって止んだようであった。
 手探りで行灯に火を入れると、家の中が明るくなった。源治はまだお民に背を向けたままの恰好で眠っている。いや、規則正しい寝息は既に止んでいるから、もう起きているのだろう。
「お前さん」
 お民はそっと呼びかけた。
「差配さんが道理でなかなか話の本題に入りたがらなかったのが納得いきましたよ」
 しばらく、源治から応えはなかった。
 やがて、ポツリと呟くような声が返ってきた。
「他人事のような言い方は止せ」
 依然として、お民に背を向けたままの良人に向かって、お民は続ける。
「でもね、差配さんだって、きっと言い辛かったと思いますよ。あんなことを言えば、私もお前さんだって良い顔をするはずがないもの」
「―お前は一体、どこまでお人好しなんだ。あんな身勝手な奴のことなんざァ、心配してやることはねえ。いっそのこと、どこか別の長屋に引っ越そう。そうだ、それが良い」
 源治がガバと身を起こし、振り向く。
「なあ、お民。こんな長屋、さっさと出て、どこか別の家を探さねえか」
 そんな良人にお民は哀しげに微笑んだ。
「私はねえ、お前さん。前の亭主と所帯を持った十五の歳からここに住んで、もう十年近くにもなるんですよ。今更、自分だけが助かって、他の相店の人たちを見捨てる真似なんてできやしません。それに、もし、その石澤っていう人が本当に私目当てでこんな馬鹿げたことを思いついたのなら、私たちがどこに引っ越そうと、また、次にゆく別の場所で似たようなことが起こらないとも限りません。そんなことになれば、余計な迷惑をかける人を増やすだけですよ」
「じゃあ、一体、俺たちはどうすれば良いんだ? 俺はどうしたら、お前を守ってやることができる?」
 源治が両手で顔を覆った。
 お民は、源治を静かな眼で見つめ、ひと息に言った。
「私、行きます」
 刹那、源治は絶句した。
「だが、お前―」
 お民は、溢れそうになる涙をこらえ、笑った。
「私が石澤さまのところに行けば、この徳平店が無事だっていうのなら、私は行きますよ」
「お前、それがどういうことを意味するか、石澤さまのお屋敷で何をするか判って言ってるのか」
 源治の救いを求めるような眼に見つめられ、お民は一瞬、視線を揺らした。これまで以上に重たい沈黙に押し潰されそうになる。
 お民の眼に涙が溢れた。
「―判ってますよ。私だって子どもじゃないんだから。私は、皆のためになるのなら、それで良いの。差配さんも言ってたでしょ。たったの一年だけ、我慢すればまた、お前さんの許に帰ってこられるんだもの。でも、お前さんはこんな私をもう帰ってきても女房として傍に置いてはくれないわよね」
「ずっと待ってる、お前が帰るまで、俺はここで待つよ」
「嬉しい、じゃあ、げんまん」
 お民が白い指先を差し出すと、源治もまた、そのほっそりとした指に骨太の指を絡める。