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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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「要は話のとおりさ。金に困った惣右衛門さんはその殿さまが申し出た話に飛びついて、考える暇もなくとっとと徳平店を土地ごと売っ払っちまったって話」
 彦六は三口めをすすって、思わず不味(まず)そうな表情になった。
「済みません、お茶が冷めてしまったようなので、もう一度淹れ直しますね」
 お民が湯呑みを取ろうとすると、彦六は?もう良い?というように手を振った。
「だからね、ここの長屋は本当のところ、もう紅屋さんの所有じゃなくなっちまったのさ」
「じゃア、その紅屋さんからここをお買い上げなすったっていうお旗本が新しい大家ってことで」
 源治が改めて問い返すと、彦六は渋い顔で頷く。
「それでね、話がそこまでなら何も言うほどの厄介事じゃないのさ。私も二日前に聞いたばかりの話で、何だか狐にでも化かされたような妙な気持ちだけど、その殿さまが徳平店を取り壊して、ここを更地にしようっておっしゃってるらしいんだよ」
「そんな馬鹿な話がありますかい。幾ら紅屋さんから土地ごと買い取ったからとはいえ、買い取って早々に長屋を取り壊すだなんて。そのお殿さまは、ここを壊した後に何か建てるつもりなんですかね」
 源治が憤懣やる方なしといった口調で言う。いつもは大人しい男がここまで怒りを露わにするのは珍しいことだ。
 彦六は憮然とした様子で首を振った。
「いや、特にそんな話は聞いちゃいねえな。殿さまのお母君の隠居所を建てるなんて話もちらとは耳にしたが、どこまで真実(ほんとう)か知れたもんじゃねえ。何せ、あちらは殿さまとお母君、お二人だけの淋しい暮らしらしいから、何もわざわざ隠居所を建てて離れて暮らす必要もなかろう。嫁姑のいざこざがあるわけでもなし」
 彦六はそこで言葉を切った。
 物言いたげにしている彦六を見、源治が問うた。
「何だい、差配さんはまだ何か言いてえことがあるようですね」
 と、彦六がいきなりその場に両手をついて頭を下げた。
「頼む。源さん、お民さん、この徳平店を、ここに住む連中を助けると思って、ここは一つ私の頼みをきいちゃ貰えないだろうか」
「おいおい、何だよ、差配さん。頼みをきいてくれったって、その頼みとやらを聞かせて貰わなけりゃア、どうしようもねえじゃないですか」
「それもそうだな」
 彦六は肚(はら)を決めたように居住まいを正した。
 そのいつになく強ばった表情に、お民は厭な予感を憶えた。
 お民の不安をよそに、彦六は源治からお民に視線を移す。
「徳平店の新しい大家となった殿さまってえのが旗本の石澤嘉門さまなんだがね。そのお殿さまがお民さんの身柄と引きかえに徳平店の取り壊しを考え直す、つまり止めても良いと言いなすってるんだ」
「おい、差配さん。そいつは一体、どういうことだよ? 黙って人が聞いてりゃア、よくもそう言いたい放題―」
 いきり立つ源治の袖を傍からお民が引っ張った。
「お前さん、何も差配さんに八ツ当たりしたって始まりませんよ。無理難題を言ってきてるのは差配さんじゃなくて、その石澤さまっていうお旗本なんだから」
 その時、お民の脳裡に再び引っかかるものがあった。
―石澤、石澤という名前は、どこかで聞いたことがあるような気がするけど―。
 考えに沈むお民を気遣わしげに見てから、源治が言った。
「今し方の科白の意味を教えてくれませんか、差配さん」
 彦六は居直ったように応える。
「つまりだね、石澤の殿さまはどこかでお民さんを見初めたらしい。それで、ご執心のあまり、お民さんを差し出すなら、今回の取り壊しはなかったことにしようとそう言いなすってるんだ」
 彦六のいつになく不貞(ふて)腐(くさ)れたような物言いに、お民の中で閃くものがあった。
 数日前、三門屋に紙の花を持っていった時、三門屋が先客に話しかけていた言葉が鮮やかに甦る。
―石澤の旦那さま。少しお待ち頂いても差し支えございませんでしょうか。
 お民は彦六に言った。
「石澤さまはお旗本、れきとしたお武家さまが急にこんな江戸も外れの土地をお求めになるだなんて、おかしいじゃないですか。恐らくは今回の話、間に入った人がいるはずです。徳平店とその土地を買うのを斡旋した商人がいるでしょう。差配さん、その仲介をしたのは三門屋という口入れ屋ではありませんか」
「こいつは愕いた。お民さんは何でもお見通しだね。確かに、紅屋さんと石澤さまの間に立ってこの話をまとめたのは三門屋とかいう口入れ屋だったね」
 彦六が眼を丸くしている。
 お民は源治に耳打ちした。
「お前さん。二年前に私に妾奉公の話があるって三門屋が言ったのを憶えてる? あの時、確か、三門屋は旗本の石澤嘉門さまって人が妾を探してるって言ってたよ」
「何だとォ」
 源治の顔色が変わった。
「何で今頃になって、そんな昔の話が出てくるんだよ? しかも、お前は俺の女房になってるんだぜ? 差配さん。済まねえが、もう帰ってくれませんか。俺はお民をその石澤何とかいう人に渡すつもりはさらさらねえ。大体、話が滅茶苦茶じゃねえか。いきなり土地ごと長屋を買い上げて、潰すだって? それが厭なら、他人(ひと)の女房を引きかえによこせだなんて、いくら相手がお侍だって、そんな強引な話通りっこありませんや。さ、話がそれだけなら、帰って下せえ」
「待ってくれよ、源さん。この徳平店に住んでる連中のこともちったァ考えてやってくれねえか。飴売りの吉(きち)次(じ)のところは先月、二人目の赤ン坊が生まれたばかりだし、茂助爺さんはもう六十で、痛風病みときてる。ここを追い出されたら行く当てもないって者(もん)ばかりが大勢いるんだよ。そんな奴らのことも少しは考えてやってくれ」
 彦六が懇願するのに、源治は怒鳴った。
「そんなこたァ、俺の知ったことじゃねえよ。なら、あんたは俺に、手前の女房を?はい、そうですか?とすんなりと差し出せとでもいうのか? それで、吉次や茂助爺さんのところは助かるかもしれねえ。だが、お民はどうなる? 好色な殿さまの慰みものにされちまうだけじゃねえかッ」
 源治がこれほどまでに怒ったのを見たのは初めてのことだった。こんなときなのに、源治が自分のためにここまで腹を立ててくれているのかと思うと、嬉しい。
 もっとも、今、源治にそんなことを言えば、お民まで?馬鹿野郎!?と怒鳴りつけられそうだったが。
「とっとと帰(けえ)ってくれ。もう話すことは何もねえ」
 源治が背を向ける。
 その頑なな背中に向かって、彦六が言った。