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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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 あの、嘉門の取った行動は終始一貫して情理に適ったものであった。息絶えた龍之助を静かに抱き上げ、お民に抱いてやっと欲しいと言った嘉門。
 お民を一方的に詰るばかりか、龍之助の出生についてまで異を唱え、死んだ子をも貶めた祥月院をお民の前できっぱりとたしなめていた。
 石澤の屋敷にいた頃もお民の身体を求めることについては貪欲で、常軌を逸したところがあった男だが、その他―祥月院の前ではお民を幾度も庇ってくれた。そんな優しさを持つ男だったのだ。
 では、嘉門ではないとすれば、誰が松之助を連れ去ったのだろう。
 お民の瞼から水戸部の貌が消え、別の女人が浮かび上がった。白い細面の、美貌ではあるけれど、けして笑わぬ能面のような女。―他ならぬ嘉門の母祥月院だ。
 あの女人であれば、松之助を拉致することも、或いは考えられるかもしれない。龍之助が死んだと判った途端、実は嘉門の子ではなかったのだと言い出した身勝手な女。
 どのような想いで我が子を手放し、石澤家に託したか親の気持ちなぞ考えようともしないで、平気で死者を侮蔑した。
 あの時、お民の中の何かが吹っ切れたのだ。
 こんな女に、人の想いも気持ちもまるで将棋の駒のように意のままに操り、役立たずとなれば無情に捨て去る連中に何を期待しても無駄なのだと悟った瞬間だった。
 お民は決意した。
 奪われたなら、奪い返すまでだ。
 あの女が龍之助だけでなく、またしても松之助までをも奪ってゆくというのなら、お民は取り返す。松之助を奪い返しにゆく。
 陽が落ちる時刻まで、お民は徳平店で悶々としていた。お民がさんざん悩んだ末、出した応えは、やはり、奪われた我が子を取り戻しにゆくというものだった。既に、今日の午後は花ふくを休ませて欲しいと岩次に伝えてある。
 お民は岩次にだけは、事の真相を伝えておいた。家に源治への書き置きを残してゆくから、良人がもし訪ねてきたら、事の次第を伝えて欲しいとも。
 現(うつつ)に戻った時、お民は既に周囲に薄闇が這い寄る時刻だと知った。
 春の陽が落ちるのは早い。お民は灯りもつけずに部屋の片隅で膝を抱えて座り込んでいたのだ。
 お民はそのまま三和土に降り、草履を突っかける。
 一歩外に出ると、十三夜の月が淡い光を地上に投げかけていた。琥珀色の円い月がやけに近く、大きく迫って見える。
 冴え冴えとした月光が白い夜道を濡らしていた。お民は、しばらく立ち止まって月を眺めていた。
 ふいに夜風に紛れた花の香りが漂ってきた。奥底に眠る官能を呼び覚ますような妖しい香りに導かれるように、走り出す。
 この匂いは多分、沈丁花。
 恐らくは、鳴戸屋の庭先から流れてくるものに相違ない。あそこの庭は四季の花であれば、何でも揃っていると謳われているほどだ。先々代の主人が金にあかして贅を凝らした庭園を造ったのが始まりで、下手な大名屋敷の庭よりも見事だと噂に聞いたことがある。
 そういえば、と、お民は今更ながらに去年の秋のことを思い出していた。
 龍之助が水戸部邦親に連れてゆかれたあの日も、鳴戸屋の庭には金木犀が咲き誇り、甘い芳香がお民の暮らす徳平店界隈まで流れてきた。
 龍之助を夢中になって追いかけながら、お民はそれが徒労であることに気付いた。その時、我に返ったお民は鳴戸屋の前に立っていて、鳴戸屋の庭で咲き誇る金木犀の香りがいっそう強く匂ってきた―。
 今また松之助が連れ去られたこの夜、同じ庭に咲く花の香りをこうして感じるのも何かのめぐりあわせなのか。
 いずれにしても、他人の宿命(さだめ)を弄ぶことにいささかの躊躇いも感じない者たちによって、お民は大切な子を一度ならず二度まで奪われた。そのせいで、龍之助は二歳の生命を散らしたのだ。
 許せない。お民の中で怒りの焔が燃え上がる。
―お前さん、松之助だけは絶対にあの人たちの思いどおりにはさせません。きっと、私がこの手で奪い返してきます。
 お民は今頃は祝宴に連なっているであろう源治にそっと呼びかけた。
 運命は自分だけのもの、他人の勝手にはさせない。今度ばかりは、松之助を渡すつもりはお民には毛頭なかった。
 挑むようなまなざしを、お民は道の彼方へと向ける。
 今頃、松之助はどうしているだろう。
 ふいに松之助の泣き顔がちらついて、お民は自分までもが泣きたくなった。弱い自分をこんなことでは駄目だと叱咤する。
 月だけが頼りの道を懸命になって駆けながら、お民は息苦しさにも似た、胸を突き上げるような焦燥に駆られていた。

 お民が長屋を出てふた刻ばかり後。
 源治は月を見上げながら、鼻歌混じりに夜道を歩いていた。
 今夜の月は本当にきれいだと思った。
 棟梁の一人娘お和香は十八になる。聟となった弟子の佐七はお和香より三つ上の二十一、棟梁が将来を見込んでいる腕も人柄も申し分のない男だ。あの二人であれば似合いの夫婦(めおと)となるだろう。
 お和香の白無垢姿に、棟梁は感極まって、おいおいと声を上げて泣いていた。その姿に、源治を初めとした他の若い連中も貰い泣きしてしまうほどだった。
 お和香は取り立てて器量良しというわけではないが、棟梁に似て気立ての良い娘だ。白無垢姿も初々しく、よく似合っていた。
―お和香ちゃんもきれいだったけど、やっぱり、あいつの方が上だ。
 つい思い出してしまうのは、お民の花嫁姿だ。
 源治がお民と祝言を挙げたのは四年前のことになる。当時、源治が二十一、お民が二十三だった。長屋の差配彦六を仲人として徳平店の店子たちが集まり、簡素ではあるが心温まる祝言を挙げることができた。
 彦六の女房がその昔、着たという白無垢を借りたお民はたいそう美しかった。白磁のようなすべらかな膚に白無垢が映えて、輝くばかりの美しさであった。
 惚れた女と晴れて夫婦となったあの日を、源治はけして忘れはしないだろう。お民の最初の良人兵助が亡くなってから丸一年、源治は源治なりに男としてのけじめを守ったつもりだった。斜向かいに暮らしながらも、祝言を挙げるまではお民に指一本触れないと決めていた。
 晴れて夫婦となった夜、恥じらいながら源治を受け容れたお民に触れながら、源治はこの女を一生離さないと誓った。
 それが、どうだろう。この四年間、お民は辛いことばかりの連続だった。所帯を持って初めの一年だけは人並みに貧しいながらも穏やかに暮らしたものの、一年が過ぎた頃にお民は石澤嘉門に見初められ、その屋敷に妾奉公に上がらなければならなくなった。
 年季前に嘉門の屋敷から返されてきたお民は、夜毎、悪夢を見てはうなされた。それが嘉門の屋敷にいたときの日々が原因だとおおよその見当はついたものの、どうしてやることもできず、源治が触れようとすれば逃げるお民に苛立ちを憶えたこともあった。
 そして、嘉門に再び犯され、予期せぬ懐妊をしたお民が源治に黙って姿を消してしまった。そのお民を追って江戸から遠く離れた螢ヶ池村まで行き、お民を説得して再び二人で暮らし始めたのだ。
 江戸に戻ってからも苦難の連続だった。
 折角授かった龍之助を石澤家に奪われ、龍之助は夭折という最悪の結果を迎えて今に至っている。