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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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 一体、あの女が何をしでかしたからといって、天は次々に苛酷な試練を与えるのだろうか。
 自分は傍にいながら、結局はいつも何もしてやれず、惚れた女を守ってやることすらできない。
 だが、これでもう何もかも上手くゆくはずだ。龍之助はいなくなってしまったが、自分たち夫婦にはまだ松之助が残されている。これから先は龍之助の分まで、松之助に愛情を注いで大切に育ててゆくことが逝った子への供養にもなるはずだ。
 源治は琥珀色に染まった月を眺めながら、つらつらとそんなことを考えていた。
 そのときの源治には、明るい未来への希望があった。
 夜風に乗って、花の香りが漂ってくる。
 まるで一糸纏わぬ女の素肌を思わせるような妖しい香りで―源治はつい、閨の中でのお民の白い身体を連想してしまった。
 自分でも苦笑しながら、徳平店までの帰り道を歩いてゆく。
 
 そのわずか後、源治は、お民と松之助が待っているはずの我が家で茫然と立ち尽くしていた。
 当然ながら、狭い四畳半には恋女房と我が子の姿はなく、もぬけの殻である。灯りも点っておらぬ我が家の前に立ったときから、源治は何故か胸騒ぎを感じたのだ。
 寝静まっているには早すぎる時間だし、眠っているにしては人の気配がなさすぎた。
 案の定、腰高障子を開けると、家の中には誰もおらず、森閑とした闇がひろがっているばかりだった。
 とりあえず行灯に火を入れると、片隅の小机に小さな紙片が残されていた。
 たどたとしい平仮名が並んでいたが、何とか源治にも読むことはできた。ざっと眼を通した源治の貌がさっと蒼褪める。
 書き置きには、松之助が侍らしい男に昼間、連れ去られたこと、自分はこれから松之助を取り戻しに石澤邸に乗り込むつもりだと走り書きされている。
 詳しいことは、花ふくの岩次にすべて話してあるから、花ふくへ行って欲しいとも書いてあった。
 しかし、これだけで十分だ。
 お民の残したこの短い文面だけで、源治はすべてを悟った。
 龍之助を失った石澤嘉門は今度は、残された松之助にまで魔手を伸ばそうとしたのだ!
 源治は、松之助を攫わせた張本人が嘉門ではなく、その母祥月院であることを知らない。
 お民が単身、石澤の屋敷に乗り込んだと知り、源治は慄然とした。
「―馬鹿野郎」
 呟きとも取れぬ独り言が洩れる。
 お前はまた、俺に何も言わねえで、一人で行っちまうのか?
 嘉門はいまだにお民に惚れている。同じ男だから、源治にも判るのだ。あの男は今でもお民への恋情を棄ててはいない。
 そんな男の許にたった一人で乗り込んでゆくなんて、あまりにも無謀すぎる。松之助のことはともかくとして、嘉門が飛び込んできたお民をみすみす屋敷から出すだろうか。
 お民の残した走り書きを握りしめ、源治は紙片の置いてあった小机に安置された位牌をそっと手に取った。
 ?龍之助童子?と書かれた小さな位牌を額に押し当てた。龍之助の遺髪はお民がいつも懐に収め、肌身離さず持っている。
「龍、母ちゃんと松を守ってやってくれ」
 本音を言えば、今すぐにでもお民の後を追い、石澤嘉門の屋敷に乗り込んでゆきたい。
 だが、それは、けして、お民の望むことではないだろう。
 あの女は、そういう女だ。
 たとえ源治がお民と共に嘉門の許に乗り込んでいっても、龍之助を取り戻しにいったときのように滅多討ちにされ、半殺しの目に遭うのが関の山。下手をすれば、今度こそ間違いなく生命を奪われることになる。
 つまり、今、源治が激情に駆られて飛び出していっても、何の意味もないどころか、かえってお民を哀しませることになるだけだ。
 源治が死ねば、お民は泣き、哀しむ。
 今の源治には祈りながら、待つしかできない。
 お民の、松之助の無事を願いながら。
 源治は何もできぬ我が身を口惜しく思いながら、拳を握りしめた。

     【四】

 源治が徳平店で無力感に打ちひしがれていた頃―、お民は石澤家の屋敷にいた。
 門前で名乗り、訪(おとな)いを告げると、お民はすぐに屋敷内へと通された。
 案内されたのは奥向きの一角、この部屋には見憶えがある。半年前、龍之助が寝かされていた場所、龍之助の最期の瞬間を見届けた座敷だ。忘れようとしても、忘れられるものではない。
 顔を見たこともない侍女に導かれてここに来てから、いかほど経ったのか。
 少なくとも半刻は待たされただろう。
 眼前の襖には四季折々の花々が大胆に描かれている。春は桜、夏は菖蒲、秋は菊、冬は椿。
 名のある絵師が描いたであろうそれを無意識の中にぼんやりと眼で追っていく。そんなことを繰り返した挙げ句、ようよう何度目かにその襖が音もなく開いた。
 お民は両手をついて、平伏する。
 嘉門は床の間を背にして胡座をかいた。お民との距離は知れている。嘉門は脇息を引き寄せ、片手で頬杖をついた上に顎を乗せた。
 お民の瞳の奥にある真意を確かめるように、じいっとこちらを無表情に見つめてくる。
 心なしか、嘉門の顔色がどす黒く染まっているように見えるのは、この部屋が暗いせいだろうか。
「さても珍しき客人が参ったものよ」
 嘉門の声にはこの事態を面白がっているような響きがある。
「一体、今更何用があって、そなたがわざわざ俺を訪ねてきたというのだ?」
 沈黙を守り通すお民に焦れたように、嘉門が唐突に口を開いた。
「そのことは、あなたさまがいちばんよくご存じなのではございませぬか」
 敢えて?殿?ではなく?あなたさま?と呼ぶ。
 わずかな間があった。
 嘉門の声にかすかに苛立ちが混じる。
「俺はそう気が長い方ではない。もって回った物言いは大嫌いなのだ。用件があるというのなら、疾く申せ」
 お民は嘉門を見据える瞳にぐっと力を込めた。
「あくまでもあなたさまがご存じないと仰せならば、私の方から申し上げます。我が子松之助をこちらでお預かり頂いていると知り、お返し頂くために急ぎ、こうしてまかり越しました」
「―松之助とな。龍之助の弟か」
 嘉門の貌には、意外なことを聞いたとでも言いたげな軽い愕きがあった。
「双子の残った片割れか。龍之助は不憫なことをした。残った弟は健やかに育っておるか」
 嘉門の声にも表情にも含むところは何もないと言って良かった。
 やはり、祥月院の差し金だろうか。
 とは思うものの、仮にも嘉門にとっては実の母親だ。息子の前で母親の罪を暴き立てるようなことを言っても良いものかと逡巡する。
 お民が声もなく見つめていると、嘉門の顔色が変わった。
「まさか、松之助がいなくなったのか?」
 嘉門がハッとした表情で立ち上がり、小さく呟いた。
「―あの女狐め」
 ?女狐?というのが誰を指すのか―、お民にはすぐに判った。お民に辛く当たった母をたしなめながらも、お民の前では母を弁護しようとしていた嘉門、その嘉門がそこまで悪し様に母を詰るのはよほどの腹立ちであろうと察せられる。
「そうなのだな、松之助が何者かにまた連れ去られたのだな」
 念を押すように問いかけられ、お民は無言で首肯した。
 嘉門はしばらく痛みに耐えるような表情で眼を閉じていた。
 ややあって早口に言う。