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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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 今夜はその源治の好物の大根の煮物と、鰯の焼いたものにするつもりである。今は昼下がり、花ふくは昼時の忙しい時間も過ぎ、空いている。その合間に、お民はいつものように長屋に帰って、源治のために晩飯の用意を整えていた。
 源治はお民のこしらえたものなら、何でも歓んで食べる。昼過ぎに長屋に戻ってくるときは大抵は松之助も一緒だ。たまに、おしまが預かってくれることもあるけれど、お民が店に出ている間はずっと松之助の守をしてくれるおしまに、そうそう甘えられるものではない。
 今日は、同じ長屋の子どもたちが松之助の面倒を見てくれている。まだ漸く二歳の松之助は遊び相手にもならないのだが、徳平店の子どもたちは松之助を弟のように可愛がった。
 大根の煮物を見て歓ぶ良人の顔を思い出し、何とはなしに嬉しくなったときである。
「おばちゃん」
 長屋の狭い路地を子どもが一人、息せききって駆けてきた。
「あら、安(や)っちゃんじゃない」
 安吉は、斜向かいに住む桶職人留造の倅である。歳は九歳、来年には日本橋のお店に丁稚として奉公に出されることが決まっていた。裏店の子はたいがい八歳から十歳の間には奉公に出る。ある者は職人になるために親方の許に住み込みで修業し、ある者は安吉のように丁稚として商家に入る。
 女の子は女中として商家に上がる者も少なくはない。いわば、安吉にとって今年は親許で甘えて過ごせる最後の年になるわけだった。
「どうしたの?」
 お民は洗い終えたばかりの大根の水を切り、立ち上がった。
「松っちゃんが変な人と一緒に行っちまったんだ」
「えっ」
 お民は予期せぬ言葉に眼を瞠った。
「それって、どういうこと?」
 安吉はまだ幼さの残る丸い顔を不安でいっぱいにしている。
 お民の中で厭な予感が押し寄せた。
「うちの松之助は筆屋のおさきちゃんやうちの隣の鶴ちゃんと遊びにいったはずだけど」
 筆屋の娘おさきというのは、この長屋の子ではない。近隣の四ツ辻に店を構える小さな筆屋の二番目の娘だ。歳は八歳になり、この長屋の子どもたちともよく遊んでいる仲間である。
 鶴ちゃんというのは、棒手振りの魚屋弐助の倅鶴次で、五つになる。お民の暮らす住まいの右隣に住んでいた。
「おいら、今日は一番下の妹の子守をしなきゃならなくて、一緒に遊べなかったんだ。それで、やっとお紺が眠ったんで、おっかあが遊びにいっても良いって言って、急いでいつもの場所に行ったんだよ。そうしたら、松っちゃんが変なおじさんに連れていかれるところだった」
 安吉には今年早々、三人めの妹が生まれたばかりで、留造の女房お喜多は安吉をかしらに五人の子どもたちを毎日、金切り声を上げながら追いかけ回している。安吉もよく赤ン坊をねんねこ袢纏でくるみ、背に負うて守をしている姿が見かけられた。
 長屋の子どもたちが普段から遊び場にしているのは、長屋の木戸口を出てすぐ先の捨て子稲荷の近辺であった。捨て子がよく棄てられていることから、この名で呼ばれるようになったというが、小さな祠が空き地にぽつねんと建てられているだけで、周囲には何もない。そのため、子どもたちの格好の遊び場になっていた。
 今日も子守から解放された安吉は真っ先に捨て子稲荷めがけて走った。
 安吉の話では、彼が見たのは松吉を抱きかかかえて連れ去る男の後ろ姿だけであったという。
 安吉が残されたおさきと鶴次に訊ねたところ、松之助を連れ去った男は松之助に、
―おとっつぁんが待ってるから、おとっつぁんのところに連れていってあげよう。
 と言った。
 年長のおさきが知らない人に付いていったらいけないよと止めたけれど、男が怖い眼で睨んできたため、それ以上、何も言えなくなってしまった。
 松之助は人懐っこいところがある。その点も、やんちゃではあっても癇が強く怖がりであった兄龍之助とは違っていた。誰にでも懐き、すぐに抱っこされてしまうのだ。
「安っちゃん、松を連れてったおじさんって、どんな感じの人だった?」
 訊ねると、安吉は首を傾げ思案顔になった。
「うん、おいらも後ろ姿だけしか見なかったから、そう言われてもよっく判らないなぁ」
 困ったように頭をかく安吉に、お民は屈み込み、安吉の顔を覗き込んだ。
「どんな小さなことでも良いの。憶えていることがあったら、教えてちょうだい」
 なおも何かを思い出すような顔をしていた安吉がパッと顔を輝かせた。
「そう言ゃア、おばちゃん。松っちゃんを連れてったのはお侍みたいな恰好をしてたよ。こう二本差しを腰に差してさ、何だか偉そうな感じがしたな」
「お侍―」
 お民は愕然とした。
 厭な感じはどんどん強くなってゆく。そして、安吉から松之助を連れ去った男が侍らしかったと聞かされ、その想いは決定的になった。
「ありがと、安っちゃん」
 安吉に礼を言うと、お民は一目散に駆けた。
 とにかく源治にことのことを話さなくてはと思ったところで、ハッとする。
 迂闊だった―。お民は唇を強く噛みしめた。
 源治の帰りが今夜は遅くなるのを忘れていた。
 四、五日前のことだ。源治が夕飯をかき込みながら、話していたっけ。
 いつも世話になっている大工の棟梁の一人娘が若い弟子を聟に迎えるとかで、確か今日が祝言だと聞いた。源治が直接祝言に出るわけではないが、祝言を挙げた後、いつも世話になっている若い大工や左官が集まって、棟梁や新郎新婦を囲んでささやかな祝いの席を儲けるのだと話していた―。
 世間話のついでのように話していたので、お民もそれほど深くは受け止めていなかったのだ。おめでたいことだなと思っただけで、格別に記憶にとめることもなかった。
 源治が今夜、いつもどおりに家で夕飯を取ると思い込んでいたのだが、とんだ勘違いだった。
「どうしよう、お前さん」
 握りしめた指先が震えるのが判った。
 お民も棟梁に逢ったことはある。福々とした小太りの容貌はまるで大黒さまを思わせる福相で、もうかれこれ四十五近いのだと聞いている。早くに女房を亡くし、男手一つで育て上げた愛娘の晴れ姿は、棟梁にとっても感無量だろう。
 折角の晴れの日をできれば邪魔したくはない。源治だとて、棟梁だけでなく、他の仕事仲間の手前、面目もあるだろう。内輪だけでの祝い事に、水を差すような真似だけはしたくなかった。
 となれば。お民一人で事に対処するしかない。だが、どうすれば良いのか。
 松之助を連れ去った男が武士らしいということは判っている。その事実から導き出される結論は―考えたくもないことだが、松之助が石澤家の手の者に攫われたのではないかということだった。
 お民の脳裡に、石澤家用人水戸部邦親の貌が甦る。最初の冷徹な能吏といった印象とは異なり、情理をわきまえた思慮深い人物であった。祥月院が反対する中で、龍之助危篤をお民に知らせ、その臨終に立ち合わせてくれたのも水戸部の尽力があったればこそだった。
 あの男が今また、残された松之助を連れ去ったとは考えがたい。であれば、水戸部ではない誰か、嘉門の意を受けた何者かの仕業か。
 その時、お民の中で閃くものがあった。
 違う、嘉門ではない。お民は龍之助が息を引き取ったときのことを懸命に思い出そうとした。