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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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 そのお民が龍之助の死に際して、あれほど感情を露わにして母に刃向かったのは、母がお民だけではなく龍之助をも冒涜するような言葉を吐いたからだ。
 もう、良い。
 あの女を苦しめるのは、これで終わりにしてやりたい。
 お民は十分すぎるほど苦しんだはずだ。
 嘉門は静かな諦めを感じ始めていた。
 それに、この身体。我が身の身体はもう大分前から酒毒に蝕まれていた。元々酒は好きではあったけれど、お民を手放して以来、女恋しさ、淋しさに耐えかねて昼夜を問わず浴びるように酒を呑み続けたことが身体を病むきっかけとなった。
 我ながら女々しすぎるとは思うが、気付いたときには既に遅かったのだ。嘉門の身体の臓腑は、酒の毒のせいで満足に働かなくなっている。
 医者は養生すれば、あと数年は保つと言ってはいるが、このような生命惜しくはない。
 嘉門は医師の処方したすべての薬を飲むことなく、棄てていた。そのことが、長らえることのできる寿命をみすみす自ら縮めているのだというのも十分承知した上である。
 石澤の家は分家からでも養嗣子を迎えれば、何とか断絶の憂き目を見ずに済むだろう。何も今更、惚れてもおらぬ女を抱いてまで、子を生ませる必要はない。
 それに、これほどまでに病んだ身体で、既に女に子を孕ませることができるのかどうかも疑問だ。
 祥月院も重臣どもも、嘉門が既に重い病に冒されていると知っている。その余命がけして長からぬことも、既に新たな子の誕生が期待できそうにもないことまで心得ている。だからこそ、お民の生んだ落胤である龍之助に眼を付け、世継として迎え入れようと画策したのだ。
 嘉門が皮肉な想いで自嘲的に考えた時、眼前の母―祥月院が焦れたように言った。
「それでは、殿、いかにしても殿はこたびの計画にはご賛意下されぬと?」
「は、申し訳ござりませぬ。ちと考え事を致しておりました。はて、何のお話でござりましたか」
 嘉門が飲み終えた茶碗を置きながら訊ねると、祥月院があからさまに眉をひそめた。
「例の―、お民の生んだ子のことにございますよ。確か龍之助君は双子であったと聞いておりまする。双子だというのであらば、今一人、その片割れがおりましょう。もう一人の若君をこちらにお迎えしてはいかがかと申し上げておりまする」
 嘉門は大仰に溜息をついた。
「また、その話にございますか。その件につきましては、既に何度もならぬと申し上げておるではございませぬか。第一、母上は龍之助みまかりし折、お民の前で仰せになられたでありましょう。龍之助は我が子にはあらず、あのような女の生んだ子ならば、私の子であるかどうかも疑わしいと。であれば、今更、そのような子を世継として迎え入れる必要もございませんでしょう」
 祥月院がうっと詰まった。
「それは、確かにそのように申しましたれど、あれは売り言葉に買い言葉と申すもの。あの女があまりに立場も身分もわきまえぬゆえ、つい懲らしめのために口にしたことにございます。龍之助君が紛れもない殿の御子であることは、信頼できる家臣に入念に調査をさせ確かめてございます」
 三年前、嘉門がお民を連れ込んだ出合茶屋の女将は、金を?ませると、当時の出来事―、お民と嘉門の間に起こったことについて洗いざらい喋った。
 嘉門がチラリと母を意味ありげな眼で見た。
「売り言葉に買い言葉、にございますか。ただの他愛もない喧嘩によるものだとしても、可愛い孫の死の哀しみも癒えぬ時、お口になさるべき言葉とは思えませぬな。とにかく、この話には私は反対にございます。母上も往生際が悪い。良い加減にお諦めなされませ」
「さりながら、殿。それでは、この石澤家は一体、どうなってしまうのです? 初代さま以来連綿と続いてきたこの石澤家のゆく末は」
 祥月院がいつになく狼狽えている。
 母は母なりに、嫁いできたこの家を守ろうとしているのだとは判っていた。実家よりは格下だと蔑んでいた婚家のために奔走する母、それもいささか滑稽だとは思うけれど、女というものは、そういう生きものなのだろう。
 どこに行っても、したたかに根を下ろし、生きてゆく。
「殿も武家にお生まれになられたからには、お世継ぎを儲けるのが当主の第一の務めとはご存じでござりましょう」
 祥月院が言い募るのに、嘉門は皮肉げに口許を引き上げた。
「母上、何も石澤の家はこの私が―あなたの血を引く息子が継がねばならぬということはございませぬ。分家筋には、父上の兄弟たちもいる。その方か、その子のいずれかを迎えれば良いだけのことにはございませぬか」
 嘉門は言うだけ言うと、立ち上がった。
「今日はご馳走さまにございました。母上のお点てになった茶は美味い。また、今度は後味の悪い話は抜きで、是非ともご馳走になりたいものにございます」
 嘉門がいなくなった後、祥月院は唇を噛みしめ、その場に擬然と座っていた。
 その瞳の奥で燃える焔は、そも何の焔であったろうか。
 ただ一つ、祥月院がこの日、知り得たことは、彼女の大切なたった一人の従順な息子が既に母親の言いなりにはならず、己が意思で歩き始めたことだけだった。

 その年も終わり、江戸の町は新しい年を迎えた。
 大切な人を喪っても、月日は流れ、季(とき)はうつろってゆく。可愛い盛りの我が子龍之助を亡くすという哀しみをも呑み込んで、お民の周囲ではゆっくりと刻が流れていった。
 龍之助とそっくりな松之助の健やかな成長を見ていると、ふいに哀しみが湧き上がってくることもあった。あの子が生きていればと、最初の子兵太を失ったときのように、つい亡くなった子の歳を数えようとするときもあった。
 何かにつけ、龍之助の様々な表情を思い出すことはしょっ中で、その度にお民は袂で湧き出た涙をそっとぬぐった。しかし、お民には支えてくれる良人源治、可愛い我が子松之助という家族がいる。龍之助を亡くした哀しみを何とか乗り越えられたのも、二人がいたからに他ならなかった。
 すべてものが灰色に塗り込められる寒く長い冬も過ぎ、やがて江戸に再び春がめぐり来た。
 弥生も半ばに入ったその日、お民は徳平店の共同井戸で大根を洗っていた。長屋には住人たちが共同で使う井戸がある。朝は洗濯や米とぎをする女たちが群がり、亭主の愚痴や子どもの自慢から始まり、他愛ない世間話まで様々な話題で盛り上がる。
 いわば、長屋の女たちにとっては社交の場でもある。
 源治の好物はだし巻き卵と大根の煮物、それに鰻だ。お民は裁縫はからきし駄目だけれど、料理はそこそこ上手い。近頃では花ふくの岩次が忙しいときに限って簡単な料理なら任せてくれるほどである。
 岩次から直接料理を教えられることはないが、板場で包丁を握るその仕事ぶりを傍で見ているだけで勉強になる。
 源治は若いせいか、食欲も旺盛で、その食べっぷりは見ていて気持ちが良いほどだ。最初の良人兵助は小食で、おまけに心ノ臓の持病も患っていた。兵助のために少しでも精の付くものをと、お民は色々と工夫した献立を並べたものだ。