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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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 曼珠沙華、別名彼岸花。秋のこの時季には比較的、どこにでも見られる花だが、石澤家の庭にも今を盛りと群れ咲いている。
 曼珠沙華を死人(しびと)花(ばな)とも呼ぶことを知っている者は、そう多くはないかもしれない。墓場でよく見かけるゆえ、そんな名が付いたとも云われる。
 死人花とは、また何と不吉な禍々しい呼び名だと思っていたけれど、こうして眺めてみると、また違った風に思えてくる。
 愛する人が長い旅路を辿るその道が、黄泉路へと続く道がこのようなきれいな花に彩られているとしたら、見送る者はどれだけ心救われるだろう。こんな美しき光景を眺めながら、あの子が旅路を辿ると考えただけで、心が少しだけ慰められるような気がする。
 真っ暗な何もない淋しい道を逝かせるのは、あまりにも不憫で。可哀想で。
 お民の眼から大粒の涙が溢れ、頬をつたい落ちる。
 彼岸花は、死者を悼む花。だから、死人花。
 美しく咲き誇った紅い花が燃えている。
 お民には、この花たちが幼い我が子の死を悼み、これほどまでに見事に咲いたのだと思わずにはいられなかった。
 鮮やかな紅色が涙に滲む。
 お民は眼を伏せ、溢れ落ちる涙を拭おうともせずにその場に立ち尽くしていた。

     【参】

 龍之助の葬儀はその二日後、和泉橋町の石澤邸において、しめやかに行われた。
 徳平店のお民の許には何の知らせもなく、葬儀が行われたことも後に知ったことだった。葬儀の翌日、石澤家用人水戸部邦親が訪れ、龍之助の形見の品を届けてきた。
 水戸部が持参したのは、石澤の屋敷に引き取られてから龍之助が愛用していたという玩具だった。でんでん太鼓と二羽の折り鶴を差し出した水戸部は意外なことを言った。
―この鶴は、殿が龍之助君とお二人で折られたものにございます。
 龍之助が石澤の屋敷にいたのはわずか半月ほどの間のことになるが、その間、嘉門はしばしば奥向きを訪れ、幼い息子との時間を愉しんでいたようであった。
―これまで奥向きなぞ滅多と訪れられたことのない殿がこの半月ほどの間は、毎日、脚をお運びになられました。
 あの男が龍之助と二人で愉しげに折り鶴を折っているところなぞ、およそ想像もつかない。だが、実の父親とそうやって少しでも父子らしい触れ合いを持つことができたというのなら、龍之助も少しは幸せであったろうと思う。
 だが、それでお民の石澤家への恨みが消えたわけではなかった。殊に、自分勝手な理由で龍之助を奪うように連れ去っておきながら、龍之助を嘉門の子ではないと言い捨てた祥月院に対しては、お民は静かな怒りを憶えていた。
 水戸部はまた龍之助の愛用した玩具と共に、錦の小袋に入れた遺髪をも渡していった。
―骨を分けることは叶わぬが、せめてこれを骨として供養してやって欲しい。
 嘉門はそう伝えて欲しいと言ったそうだ。
 お民はわずかばかりの遺髪を胸に抱き、慟哭した。
 そんなお民を、傍で源治が唇を噛んで見守っていた。
 実際のところ、龍之助が亡くなり、いちばん打撃を受けているのは源治かもしれなかった。
 お民はまだこうして感情を表に出すことができ、そうやって哀しみを幾ばくかでも外に出せる。しかし、源治はずっとその哀しみを内に抱えているのだ。
 源治にしてみれば、己れが何もしてやれなかったことが深く心に悔いとなって残っているようだった。それもそうだろう、お民が徳平店に帰ってきた時、既にすべては終わっていたのだ。龍之助はこの世からいなくなり、源治は倅の死を看取ることもなく、ただ残酷な事実を告げられたにすぎなかった。
 龍之助がお民の胎内にいるときから、源治はずっと龍之助を見守ってきた。誕生のときも出産の瞬間こそその場にはいなかったけれど、それ以外はすべて立ち会い、生まれてからもずっと二年間、我が子として無償の愛を注いできたのだ。
 源治にとって、彼の言うとおり、龍之助は我が子そのものであったろう。
 源治は再び、笑うことも冗談を言うこともなくなった。松之助が膝に乗ってきても、ただ惚(ほう)けたような表情で頭を撫でているだけだ。
 まるで、源治の中の何かが壊れてしまったかのように見えた。
 龍之助が亡くなってから、更に半月が経ったある日のことである。
 既に暦は霜月に入っていた。
 江戸にも寒い冬が訪れたのだ。冬特有の薄蒼い空は寒々しく、余計に大切な人を喪った哀しみと空虚さをかきたてるようであった。
 霜月の半ば、源治は左腕も完治し、再び仕事に出かけるようになった。仕事に復帰してから数日め、その日は午前中だけで仕事を終えた源治はお民が昼過ぎにいったん長屋に帰ってきた時、先に帰っていた。
 源治の姿を見た松之助が歓んで、父に抱きつく。しかし、源治は虚ろな眼で、お愛想のように微笑んで見せただけであった。
 お民が急いで夕飯の支度をしている間、源治は壁に背を預け、惚けたように宙を眺めている。
 松之助は大好きな父親の傍に寄り、その膝に這い登り、乗っかった。
「父ちゃ、この頃、元気ねーね」
 松之助当人としては?元気ないね?と訊ねているつもりなのだ。
 ふいに、源治が視線を動かし、松之助を見た。
「―龍」
 龍之助の名を呼び、ハッとした表情になる。
「おいら、兄ちゃじゃねえ、松だよ」
 片言ながら、我が意を懸命に伝えようとする松之助を見ていた源治の眼が揺れた。
「そうだな、お前は龍じゃねえ、松だ。ごめんな、父ちゃん、お前があんまり龍に似てるもんだから、間違っちまった。でも、お前は龍じゃねえ、松なんだ。間違っちゃ、駄目だよな」
 まるで己れ自身に言い聞かせるような言葉だった。
「松、松よう。お前はどこにも行くなよ。なあ、松」
 源治が涙声で言い、松之助を抱きしめた。
「うん、おいら、どこにも行かないよ。だって、おいら、兄ちゃの次に父ちゃが大好きだもん」
 松之助が嬉しげに言うと、源治が顔をくしゃくしゃにした。―源治は泣いていた。
「そうか、お前は龍がいちばん好きか」
「うん、おいら、兄ちゃがいっとう好き。でも、父ちゃ、兄ちゃは、いつ帰ってくるの?」
 長い沈黙があった。
 お民は良人が一体、この無邪気で残酷な質問にどのように応えるか、はらはらしながら見守っていた。
 しばらく後、源治が眼をしばたたいた。
「いつか逢えるさ。それにな、松。龍はお前の心の中にずっと生きてる。お前が龍を、兄ちゃをいっとう好きだと思ってる限り、龍はいつまでも生きてる。お前が龍を思い出してやりさえすりゃア、いつだって龍には逢えるよ」
「―?」
 きょとんとした顔で源治を見る松之助に、源治は泣き笑いの顔で肩をすくめた。
「―うん!」
 二歳になったばかりの松之助がこの時、源治の言葉をどこまで理解したかは判らない。恐らく、判らずに頷いたのだろうけれど、松之助はさも判ったように元気よく返事をしたのだった。
 その日を境に、源治は再び生きる気力を取り戻したようであった。龍之助を失い、一度は散り散りになりかけた一家の絆は再び強く結びついた。
 残された松之助を忠心に、源治とお民は再び日々を懸命に生きてゆこうとする。

 源治が松之助に手を引かれ、再び立ち上がったのとほぼ同じ頃。