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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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 普段は冷え冷えとした光を宿す瞳が、このときだけは複雑な想いに揺れている。むろん、龍之助しか眼に入ってはおらぬお民は、そのときの嘉門の苦渋に満ちた顔に気付くはずもない。
 この瞬間ばかりは、嘉門は龍之助の父であり、お民は母であった。二人共に、消えゆこうとしている小さな生命の焔を繋ぎ止めようと必死になっていた。
 龍之助はなおもしばらく喘いでいたが、やがて、その苦悶も終わりを迎えるときが来た。
 荒い呼吸がふっと途絶え、握りしめていた小さな手から急速に力が失われた。
「龍―之助」
 お民は震える声で龍之助の名を呼ぶ。
「あ、あ、あ―」
 お民は烈しく首を振りながら、龍之助の顔を覗き込む。
 嘘だ。龍之助が死ぬはずなんてない。
 この子はまだ、たった一歳なのに。
 健やかであれば、龍之助は来月、二歳の誕生日を迎えるはずであった。
 だが、この子が歳を取ることはない。この子の刻は永遠に止まってしまった。
 嘉門が龍之助の開いたままの両眼をそっと手で閉じてやった。
「お民、抱いてやってはくれぬか」
 嘉門のひと声に、お民はハッと顔を上げた。
 嘉門が横たわったままの龍之助をそっと抱き上げ、お民に手渡す。まだ温かいその身体は、到底、既に刻を止めてしまったようには思えない。
 お民は涙に濡れた瞳で、龍之助を抱きしめ、我が子のやわらかな頬を撫でた。
 俄に部屋の外が騒がしくなった。
「嘉門どの、龍之助君がいかがしたと―」
 襖が開き、祥月院が現れた。その後ろに侍医らしい初老の総髪姿の男が畏まっている。
 が、嘉門は祥月院に首を振った。
 刹那、いつもは取り澄ました祥月院の面がさっと蒼褪めた。
「何ゆえ、その女が龍之助君をお抱き申し上げているのです」
 孫の死は死として、こんなときでさえ、この女はお民が龍之助を抱いていることが気に入らぬらしい。
 祥月院が狼狽えているのは孫の死によるものか、それとも、お民が龍之助の亡骸を抱いていることへの腹立ちによるものか判ったものではない。―と、お民は皮肉な想いで考えた。
「母上、少しお静かになさっては頂けませぬか。龍之助はやっと苦しみから解放されたのです。せめて今は静かに眠らせてやりましょう」
「さりながら、殿はこの女をいつまでここに置いておかれるおつもりにございますか? この機に乗じてまた、この女をお側にお召しになるおつもりにはございませんでしょうな」
 祥月院が柳眉を逆立てるのを、嘉門は憐れむような、蔑むような眼で見つめた。
「母上、このようなときにお言葉をお慎み下され」
 嘉門はそう言うと、医者の傍に控えていた水戸部に命じた。
「邦親、お民を徳平店まで送り届けてやってくれ」
 その言葉には、水戸部が顔色を変えた。
「さりながら、殿。今少し、お方さまと若君さま、最後のひとときをお過ごしあそばされるようになされてはいかがにございましょう」
 流石に今、この場で母子を引き離すことの酷さを訴えようとしたのだろう。言い募る水戸部に、嘉門は断じた。
「その必要はない」
 この時、嘉門がお民の身柄を徳平店に帰そうとしたのは、他ならぬ母祥月院の手前があったからだ。これ以上お民をここに置いていては、祥月院が何を言い出すか知れたものではない。それでなくとも愛盛りの我が子の死に打ちひしがれているお民に、祥月院の心ない言葉のつぶてを浴びさせるに忍びなかったのだ。
 しかし、そのときのお民に嘉門の心が判るはずもなかった。
「―お恨み致します」
 お民は低い声で呟いた。
 嘉門を、祥月院を、真っすぐに見据えた。
「な、何じゃ。この女子は」
 祥月院がさも怖そうに首をすくめ、魔物でも見るかのような眼でお民を見た。
「あなた方が寄ってたかって龍之助を殺したのです。二歳にもならぬ小さな子を夜、外に連れ出した祥月院さま、あなたさまも母親であれば、それがこのような結果を招くことになるやもしれぬと何故、お考え下さりませんでした」
「そ、そなたは、わらわが悪いと申すのか。このわらわが龍之助君を殺したと」
 祥月院が怒りと愕きのあまり、わなわなと震えていた。
 三年前、石澤家に嘉門の側室としていた頃のお民は、いつもうつむいていた。祥月院が何を言おうと、ただひたすら黙って泣いて耐えていたのだ。
 それが、まるで人が変わったように反撃してくる。
「殿、ご覧なされましたか。これが、この女の怖ろしき本性にございますぞ。龍之助君だとて、真、殿のお血を引いた御子がどうか、知れたものではございませぬ。このような下賤なる女子であれば、幾人の男と拘わりを持っているやもしれませぬでのう。この屋敷におる時分は楚々とした風情を装っておりましたが、これで、この女の正体が判ったというもの。殊勝なるふりもすべて、殿のお気を引くための手練手管にござりましょう」
「母上、良い加減にお止めなされませ!」
 嘉門の鋭い声が飛んだ。
 祥月院が鼻白み、押し黙る。
「酷い、あなたさまはそこまで仰せになられますか。龍之助を、あの子をそこまで貶めるのでございますか」
 お民が涙ながらに叫んだ。
「私は何も望んで自らあの子の手を放したわけではありません。あなた方がこの家に世継が必要だからと、勝手に攫っていったのではありませんか。それを今になって、あの子がこの家の子ではないと、そんな酷いことを」
「お民、母上も龍之助の突然の死で気が立っておられるのだ。このとおりだ、許してやって欲しい」
 嘉門が詫びると、祥月院がますますいきり立つ。
「殿がこのような賤しい女に頭をお下げになる必要はございませぬぞ。ええ、そうですとも。龍之助が我が孫などであるはずがない。このような怖ろしき女の生んだ小倅など、我が孫だと思うだに、けがらわしいッ」
「母上! いまだ龍之助の亡骸もここにあると申すに、お止めなされ」
 嘉門が怒りを抑えた声で母をたしなめる。
 しかし、絶望と怒りに我を忘れたお民には、最早、その声も届かなかった。
「返して、龍之助を返してよ! あの子を返して」
 お民が泣きながら叫ぶのを見、嘉門が水戸部にそっと眼顔で合図する。
 心得た水戸部が頷き、お民の肩をそっと背後から押さえた。
「お方さま、参りましょう」
 お民はまだ号泣しながら、それでも水戸部に促されるままに部屋を連れ出された。
 意思のない傀儡(くぐつ)のように廊下を歩いてゆく。
 その背に、祥月院の呆れ果てたような声が追いかけてきた。
「おお、怖い怖い。やはり、町家の身分賤しき女はこれだから怖ろしうございます」
 哀しみの涙に暮れるお民には、その嘲るような声も聞こえなかったのはせめてもの幸いであったかもしれない。
 一歩外に出ると、既に朝の光が庭を淡く照らし出していた。お民にとって、長い一夜が終わったのだ。
 早朝のひんやりとした大気がお民を包み込む。
 水戸部に付き添われ、玄関の式台から庭へ降り、門まで歩いてゆく途中、お民の脚がふっと止まった。
「―きれい」
 思わず呟かずにはおれないほど、庭の一角が燃えていた。いや、正確には紅蓮の焔が燃え立っているように見えるほど、紅い花が一面に群れ咲いている光景が見事であったのだ。
「曼珠沙華にございますな」
 傍らの水戸部が静かな声音で言った。