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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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 しかし、嘉門の母?月院が時の老中松平越中守親嘉(ちかよし)の実妹ということもあってか、羽振りはたいそう良い。何でも老中に届けられる諸大名家からの賄賂の一部がこの甥の懐に多額の小遣として流れ込んでいる―という噂もあるのだ。
「はっ、ありがとうございます。この三門屋信吾、しかと石澤さまの御意を承りましてございます。石澤さまのお望みの品、必ずやお手に入るように尽力させて頂きましょう」
 三門屋は眼の前に投げてよこされた錦の巾着を急いで拾い、さもありがたげに押し頂き懐に収めた。
 その一部始終を嘉門が冷めた眼で見つめる。
「それで、その方はいかがするつもりなのだ? たとえ相手は町人とはいえども、既に亭主のおる女だぞ? そうそう無体もできまい」
 三門屋は満面の笑みで応えた。
「いいえ、ご心配には及びません。石澤さま、どうかこの三門屋をお信じ下さりませ。三門屋信吾、少々、考えがございます」
「ホウ、知恵の固まりのようなそちがそのように自信たっぷりに申すからには、それだけの勝算があるからに違いなかろうの」
 嘉門が愉快げに言うのに、三門屋は頷いて見せた。
「どうかお任せ下さいませ」
「もっとも、そなたのその知恵が冴え渡るのは悪事のときに限ってのような気もするが」
「これはなかなか手厳しいことを仰せにございますなあ」
 三門屋はおどけた口調で言い、片手でピシャリと額を叩いた。
「まァ、良い。その方のその悪知恵のお陰で俺は欲しい物を手に入れることができるのだからな。そなたの手並み、とくと見せて貰おう」
 嘉門はさも面白そうに言い、また、低い声でひとしきり笑った。

 一方、三門屋を出てから徳平店に戻るまでの道をお民は何か胸騒ぎにも似た想いを抱えて辿った。
 厭な男だ、と思った。まるで蛇のように冷たい、容赦のない瞳。あの冷えたまなざしがまるでお民の身体中を舐め回すかのように這い回っていた。思い出しただけでも鳥肌が立つような、背筋に鋭い刃をピタリと当てられでもしたかのような恐怖心を憶えずにはおれない。
 それにしても―と、思う。あの男は確かに今日初対面には違いない。あれほどの圧倒的な存在感を漂わせる男であれば、一度でも逢ったことがあれば、忘れるはずはない。
 しかし、何かが、あの男についての何かがお民の記憶に引っかかっていた。しばらく思い出そうとしてみても、まるで何も浮かんでこない。
 お民は直に考えるのを止めた。
 止そう、止そう。あんな怖ろしげな男のことなんて早く忘れた方が良い。
 お民はあの凍てついた瞳を頭の外に追い出そうとするかのように、小さく首を振った。
―今日の夕ご飯は、少し奮発して鰻にでもしようかしら。
 お民の頭はもう、他のことで一杯になった。
 鰻は源治の大好物なのだ。兵助は脂っこいと言って鰻を嫌ったが、お民は精がつくからと、持病持ちの兵助のために鰻をよく焼いた。
 まだ二十二と若い源治は飯でも丼に二〜三杯はすぐに平らげる。それだけ食べて、よくあんなに細いままでいられるねとお民が呆れ羨ましがるほどの大食漢なのだ。実際、源治は均整の取れた、すらりとした長身だ。
 良人の歓ぶ顔が見たくて、お民の脚は自然に速くなる。
 あの冷たい眼をした男のこともそれきり忘れてしまった。

     【弐】

 その数日後の朝、お民の住まいを差配の彦六が訪れた。差配というのは大家になり代わって、店賃を集めたり、裏店で起こる様々な問題に対処する役目を果たす。
 徳平店の大家は日本橋の紅屋という紅白粉問屋の隠居惣右衛門だが、老齢のためにこの彦六が差配として万端を取り仕切っている。
 ちなみに、彦六は煮売り屋を営んでいる四十半ばほどの気の好い男だ。
 その日は朝から小雨の降る寒い日だった。
 彦六の家は神田明神下の方にあって、普段、滅多に顔を見せることはない。
 お民は突如として訪ねてきた彦六に熱い茶を淹れ、勧めた。
 ところが、どうしたものか、いつもは大黒天を彷彿とさせるような恰幅の良い男が難しげな表情で座り込んだまま、湯呑みを前にして黙り込んでいる。その日は生憎の雨で源治も丁度家にいたため、お民と源治は気の好い差配のいつにない浮かぬ顔に思わず眼配せし合った。
「困ったことになった」
 どうしたのかとお民が問おうとするのとほぼ時を同じくして、彦六が唸った。
「何か―あったんですか?」
 躊躇いがちに訊ねると、彦六は更に眉間の皺を深くして黙り込む。
 たまりかねた源治が言った。
「差配さん、何か厄介事でも起きたんですかい?」
 その言葉に、彦六が弾かれたように面を上げる。その視線が源治、更にお民へと忙しなく泳いだ。
「源さんの察しのとおりさ、厄介事も厄介事、生半可なもんじゃない」
 常であれば、こんな持って回った物言いをせぬ彦六にしては珍しく、歯切れの悪い言い様だ。
 その不自然さに、お民と源治はまたも二人してどちらからともなく顔を見合わせる。
「差配さん、ただならねえことが起こったのはよく判ったが、良い加減に何があったか教えちゃくれませんか」
 源治が控えめに言う。
 彦六は大きな吐息をつき、頷いた。
「実はなァ、源さん。大家の紅屋さんがここ(徳平店)を売ろうってえ腹づもりになってるのさ」
 「えっ」と、お民は思わず叫んでしまった。
 源治がお民をチラリと見、質問を続ける。
「しかし、今頃になって何でまた、突然、そんな話になっちまったんですか」
「それがねえ、あんた、こっち―つまり、徳平店の店子にとっては寝耳に水の話でも向こうの紅屋さんにとっては、そうそう突然ってわけでもないんだよ」
「それは、一体どういうことなんです?」
 お民が傍らから問えば、彦六は初めて湯呑み茶碗に手を伸ばし、ひと口だけ音を立ててすすった。
「日本橋の紅屋さんの商いがもう大分以前からはかばかしくないのは、お前さん方も知ってるだろう?」
「いや、初耳ですよ。そんな話、あったんですか」
 源治の存外に整った貌に軽い愕きがひろがる。
「ああ、マ、あそこは主人の惣右衛門さんを初め、長年勤め上げた番頭、手代と皆口が固いからねえ。内輪が皆口をつぐんで知らぬ存ぜぬを通していたから、思ったよりは世間さまに広まってはいないようだがね」
 彦六は大仰に肩をすくめた。
「困ったのは、ここから先なんだよ。紅屋の惣右衛門さん、何をとち狂ったか、この徳平店を手放そうって気になってね」
「そんな、まさか―」
 お民が信じられないといった顔で首を振ると、彦六は眉根を寄せた。
「そりゃア、私だって信じたくはない話だけど、こいつは紅屋さんの方から言い出した話ではないっていうじゃないか。紅屋さんのところが随分前から商売が傾いて借金もあるってえのを小耳に挟んだ旗本の殿さまが法外な値でお買い上げなさったっていうんだよ」
「一体、それはどういう―?」
 お民には皆目判らぬ話だ。紅屋惣右衛門が商売にゆきづまり、借財までこしらえていたところまでは判った。だが。
 何ゆえ、そこにいきなり旗本の殿さまが出てくるのだろう?
 「だからさ」と彦六はもどかしそうに言い、更に、ひと口、とっくに冷めた茶をすする。