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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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 お民は急のこととて、着の身着のままで長屋を出てきた。ゆえに、粗末な木綿の一重を身につけている。町家暮らしの女―しかも、いかにも、その日暮らしの裏店住まいの女といった装いのお民を見て、露骨に眉をひそめた。
 お民は龍之助の枕許ににじり寄った。
「龍之助、龍之助ッ」
 半狂乱になって叫ぶお民を、祥月院は冷たい眼で見つめる。
「相変わらず、騒がしき女子よの。そのように気違いのように騒いでは、治る病も治るまい。静かに致さぬか」
 吐き捨てるように言い、立ち上がった。
 もう後を見ることもなく、打掛の裾を翻して去ってゆく。襖が外側から開き、祥月院の姿はその向こうに消えた。
 あたかも、お民のような身分の賤しい女とはただのいっときも共に居たくないと言わんばかりの態度であった。祥月院が自分を町人だと蔑み、憎んでいたのは知っていたが、久々にこうしてあからさまに敵意のこもった眼にさらされると、今更ながらにこの女の自分に向ける憎しみが鋭い刃となって心を抉るようだ。
 お民は横たわるだけの我が子を見つめた。
 半月前、最後に逢ったこの子はあんなにも元気そのものであったのに、一体何があったというのか。
 水戸部の話では、龍之助は数日前から風邪を引き込んでいたという。何でも観月の宴を催すとかで、祥月院が夜、庭に連れ出したその翌日から、体調を崩したようだ。連れ出すとはいっても、廊下に毛氈を敷き、祥月院を初め、嘉門や龍之助、主だった石澤家の家族が居並び、明月を愛でたにすぎないのだが。
 とはいえ、二歳になるかならずの幼児には、夜風は良くなかったらしい。その翌朝から、咳や軽い発熱の症状が見られ、大事を取って医師の診察を受け処方された薬も服用していたにも拘わらず、二日前から俄に高熱を発し、枕も上がらぬ体になった。医師の診立てでは、どうやら肺炎を併発しているとのことだった。
 そして、昨日の夜、容体は更に悪化し、医師も難しい顔で首を振った―。祥月院はお民を呼ぶ必要はなしと最後まで言い張ったが、水戸部が当主である嘉門に願い出、急きょ、徳平店に知らせに走ったのである。
 お民が駆けつけた時、既に龍之助は意識を失っている状態であった。
 それでもお民は龍之助の小さな手を握りしめ、枕許で我が子の名を呼び続けた。
「龍っちゃん」
 握った手は愕くほど熱かった。
 顔は蝋のように白いのに、額も手も身体の至るところが異様に熱い。かなりの高熱を発している証であった。
 龍之助は練り絹の夜着を着せられている。
 このような豪奢な着物は、ここに連れられてくるまで着たことはなかった。だが、何が東照権現さま以来の譜代の名門だろう、五百石取りの殿さまの世継だろう。
 こんな贅沢な着物を着せられて、何不自由ない暮らしをさせていても、誰一人として本当に龍之助のことを考えてやる人はこの屋敷にはいなかったのだ!
 わずか二歳にもならぬ幼児を夜風に当てた挙げ句、瀕死の状態に追い込んだのは他ならぬあの女、祥月院ではないか! 自分を賤(しず)の女(め)と蔑むのは良い。だが、龍之助はあの女にとっては孫になるのだ。何ゆえ、もう少し龍之助の身体のことを考えてやってはくれなかったのか。
 十月の気候は日中は汗ばむほどの陽気になるが、夜は結構冷えるのだ。そんな夜に幼子を外の風に当てるのが良くないことは、仮にも人の母となり子を育てたことのある女であれば、判るはずなのに。
 お民は今、生まれて初めて人を憎んだ。
 龍之助の小さな口が動く。
「龍っちゃん、龍っちゃん?」
 お民は龍之助の口許に耳を寄せた。
「どうしたの、何か言いたいことがあるの? おっかちゃんだよ」
 龍之助は苦しげに顔を歪めている。
「龍っちゃん、苦しいのかい?」
 お民は傍に置いてあった盥の水に手拭いを浸し、固く絞った。龍之助の顔を冷たい手ぬぐいで丁寧に拭いてやる。
 龍之助はなおもしばらく苦しげに口を動かしていた。その固く閉じた眼尻からつうっとひとすじの涙が流れ落ちる。
「龍っちゃん、苦しいの? ねえ、龍っちゃん。お願いだから、眼を開けてよ」
 お民は龍之助の手を握りしめたまま、その場に打ち伏した。声を殺して泣いていたその時、静かに襖が開いた。
 祥月院がまた戻ってきたのかと顔を上げたお民の眼に、三年ぶりに遇う男の貌が映っていた。
 お民に龍之助と松之助を生ませ、今また、お民の手から龍之助を奪っていった男だ。
 この男がお民の運命を狂わせ、折角手にしたささやかな幸せをすべてぶち壊してゆく。
 お民は頭を下げることもせず、嘉門を見つめた。
 嘉門の表情は相変わらず読み取れない。感情の一切を排除したような眼でお民を見下ろしている。
「何故、こんなになるまでお知らせ下さらなかったのでございますか」
 唇が戦慄き、声が小刻みに震えた。
「せめて意識の確かな中に、顔を見せてやりとうございました」
「―済まぬ。こちらも高価な薬を惜しみなく使い、打てるべき手はすべて打ったのだが、このような仕儀になってしもうた。昨日は公方さまのご嫡男竹千代君の侍医曲(ま)無瀬(なせ)道源(どうげん)どのにもわざわざお越し頂き、診て頂いたのだ」
 嘉門の祖父は前(さきの)老中松平越中守であり、現老中は伯父に当たる。また、越中松平家は親藩、つまり将軍家との縁戚関係にある名門であった。そのつてで、将軍家世嗣の掛かり付け医を呼ぶことができたのだろう。
「曲無瀬どのは小児科の権威であり世に並ぶ者なき名医と謳われるお方ゆえ、万が一と一縷の望みを託していたが」
 嘉門はそれ以上を語らなかった。
 つまりは、その名医にすら見放された―最早見込みなしと宣告されたのだろう。
「そのようなこと、今更、何となりましょう」
 言い訳のように精一杯の手を尽くしたのだと繰り返す嘉門を、お民は恨めしげに見つめた。
「あなたさまは、いつもそう。私をこれでもかとどこまでも追いつめ、やっと手にしたささやかな幸せを台無しにする」
「お民―」
 嘉門が物言いたげに口を開きかけたその時。
 龍之助が急に苦しみ出した。
 まるで酸欠の金魚が水面から顔を出して喘いでいるように見える。
「龍っちゃん、龍っちゃん!」
 お民は気が触れたように我が子の名を呼んだ。
「誰かおるか、医者を呼べ、早うに医者を呼ぶのじゃ」
 嘉門の声が響き渡った。
 その間にも、龍之助はまるで引きつけを起こしたように、顔を歪め、白眼を剥いて、荒い呼吸を続けた。
「龍っちゃん、しっかりしてッ」
 お民は龍之助の手を握りしめ、何ものかに祈るようにその手を押し頂いた。
 御仏よ、どうか、この子をお連れにならないで下さい。この子は、まだ生まれてたったの二年しか生きてはいないのです。この世の何たるかもまだ少しも知らない哀れな子です。どうか、この子に寿命をお与え下さい。そのためならば、この私の生命と引き替えにしても構いはしません。ですから、どうか、この子をお助け下さい。
 お民は懸命に祈り続けた。
「龍之助、しっかり致せ」
 嘉門の声が耳を打ち、お民は我に返る。いつしか嘉門が傍にいた。嘉門もまた何かに耐えるような表情で、病魔と闘う我が子を見つめていた。