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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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 そう、龍之助はもう二度と帰ってはこない。
 たった一人の大切な世継がその日暮らしの裏店住まいの女を母親に持つなぞ、石澤家の人々はけして認めたくはないだろう。
 龍之助とは親子の名乗りもできないし、また、してはならないのだ。
 龍之助のことを諦めると決めたときから、それは覚悟はしていたけれど、現実に認識するのは辛いことだった。
 松之助はなおも龍之助と瓜二つの切れ長の瞳をまたたかせ、不思議そうな顔でお民を見つめていた。
 お民はそんな松之助をひしと抱きしめ、この子だけは何があっても離さないと思った。
「おっかちゃ、痛いよ」
 あまりにきつく抱きしめたため、松之助が不満そうに口を尖らせたものだ。
 龍之助も松之助も、愕くほど嘉門に似ていた。殊に涼しげな眼許は父親譲りのようだ。男の子だから実の父親に似たのかもしれない。
 源治もこのところは塞ぎがちで、以前は冗談をよく言ってはお民を笑わせていたのに、この頃はろくに口をきかない。
 ただ松之助がいてくれることが、二人にとっては大きな救いであった。
 その夜も源治は帰るなり、薄い夜具に潜り込んだ。お民はいつも昼過ぎにいったん徳平店に戻る。夕飯の支度を済ませてから、再び店に取って帰すのだ。
 その日に用意してあった夕飯には全く手が付いていなかった。お民に背を向けて横たわる良人を、お民は切なく見つめた。
 源治が龍之助を思って無口になっているのは判っているが、それでも面と向かって無視されているかのような態度を取られると、やるせなかった。
 まるで龍之助がいなくなってしまったことがお民自身の責任だと無言の中に責められているような気がしてくるのだ。
 夜半から、とうとう降り出したようだった。初めは小さかった雨音は徐々に大きくなり、直に屋根を打つ音が耳につき始めた。
 静まり返っているだけに、雨音が余計に大きく聞こえてくるようにも思え、お民は更に眠れなくなった。
 何度めかの寝返りを打った時、背を向けていた源治が唐突に口を開いた。
「眠れねえのか」
「ええ」
 お民は頷いて、床の上に身を起こした。
 「風が」と言いかけ、ゆるりと頭を傾ける。
 耳を澄ませてみても、雨が降り出すまであれほど荒れ狂っていた風の音は既に止んでいた。
「風は止んだようですね」
「ああ、一時は野分か嵐になるのかと思ったがな」
 源治もまた床の上に起き上がったようだ。
「何だか風の音を聞いてたら、余計に眠れなくなっちまって」
「―」
 源治は無言だったが、お民は構わず続けた。
「風の音があの子の泣き声のように思えてならないんですよ」
「どうしてるかな、今頃」
 まるで独り言のように、ポツリと源治が洩らした。
「あの子は松之助と違って、やんちゃな割には臆病ですから、風の音に怯えて泣いたりはしていないかと心配で」
 お民が言うと、源治が小さな声で言う。
「五百石取りの殿さまの倅になったんだ。大切に育てられてるだろうよ。乳母とか誰かが始終、傍についてるんじゃねえのか」
「でも、実の母親のようなわけにはゆきませんよ」
 言ってしまってから、お民はハッとした。
「済みません。言わなくても良いことでした」
 源治はお民の気を少しでも慰めようと口にしたのに、つい逆らうようなことを言ってしまった。
「良いんだ、俺もお前の気持ちも考えねえで、余計なことを言っちまった。お前にしてみれば、自分が傍にいてやりたいのに、見も知らねえ赤の他人に龍を任せなきゃならないのは、たまらないだろうからな。悪かったよ」
 お民は微笑み、緩く首を振った。
 源治とこうやって心から素直に話し合えたのは久しぶりのような気がする。それが少しだけ嬉しかった。
 源治がお民を見て、吐息をついた。
「俺ァ、龍がいなくなっちまって、まるで自分の身体の一部がどこかに持ってかれちまったように思えてならねえんだ。だけど、よくよく考えてみりゃア、辛えのは俺だけじゃねえ。お前は、龍を腹を痛めて生んだ母親だ。俺なんかよりもっと辛い想いをしてるんだから、もっと労ってやらなきゃならねえのに、俺は自分の気持ちばかりに引きずられて、お前のこと考えてやらなかった」
「良いんですよ、そんなこと。お前さんの気持ちは本当にありがたいと思ってます。これ以上、望んだら、罰(ばち)が当たりますよ」
 それは、心からの言葉だ。実の子ではない子を我が子としてその腕に抱き、慈しみ育てる―、なかなか誰にでもできるものではない。
「止せやい。また水臭え他人行儀なことを言いやがって。手前のガキのことをてて親が心配するのは当たり前じゃねえか。何も改まって礼を言われるほどのことじゃねえや」
 お民は微笑んで頷いた。
 その時、表の腰高障子が荒々しく叩かれた。
 源治が弾かれたように顔を上げる。
「夜分に申し訳ござらぬ。それがしは石澤家用人、水戸部邦親にござる。お方さまに火急のご用があり、こうしてまかり越した次第」
 その切迫した声に、お民と源治は顔を見合わせた。

 それから四半刻後、お民は石澤家から寄越された駕籠の中の人となっていた。真夜中に水戸部が徳平店を訪れた理由は、あろうことか、?若君さまご危篤?というものだった。
 お民はむろん、源治も共に行きたいと申し出たのだが、それは却下された。水戸部は源治に向かって頭を下げた。
―お方さまの身柄は必ずやご無事にその方にお返し致そう。この水戸部の生命に代えても、この約定は守るゆえ、今は辛抱してくれ。
 源治が石澤の屋敷に行きたいと言った気持ちを、水戸部は正確に理解していた。我が子として育てた龍之助の身を案ずると共に、また女房の身をも心配していたのだ。
 お民への嘉門の執着は並外れている。それは一度は暇を出しながらも、しつこくつけ回し、ついには軟禁して手籠めにしてしまったという事実でも明白だ。
 お民が石澤の屋敷にゆけば、また嘉門に引き止められるのではないか―、源治がそう思うのも無理はなかった。
 水戸部に白髪頭を深々と下げられては、源治も得心せぬわけにはゆかない。結局、お民だけが迎えに遣わされた駕籠に乗り、雨の中、石澤邸に向かった。
 お民が案内されたのは、屋敷の奥まった一室であった。奥向きと称される当主の正室や、その子女が住まう私邸部分に当たる。対する表は当主が政を行う公邸部分に匹敵し、これが公方さまの住まう江戸城では表御殿と奥御殿―即ち大奥であった。むろん、旗本の石澤家でもこの奥向きには、当主の嘉門以外の男子は脚を踏み入れることはできない。
 とはいえ、お民が以前、この屋敷にいた頃は離れで起居していたため、?本邸?と称されていた屋敷の仕組みは殆ど知らなかった。
 龍之助が寝かされていた座敷も初めて見る部屋であった。八畳ほどの部屋に豪奢な布団がのべてあり、そこに小さな身体が横たわっていた。
「龍之助ッ」
 お民は蒼白い顔の我が子を見て、悲鳴のような声を上げた。
 龍之助の枕辺に座していた女性がちらりと振り返る。その顔は忘れようとしても忘れられない、祥月院その人であった。紫の打掛に切り下げ髪の武家のご後室姿は相変わらず若々しく美しいが、その白い面は凍てついた氷のようであった。