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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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 お民は悲鳴を上げて、良人に駆け寄った。
 恐る恐る手を伸ばし、源治の左腕に触れる。
「ごめんなさい。私なんかと関わり合ったばかりに、お前さんには本当に苦労ばかりかけちまいますね」
 涙が、溢れた。
「本当の子でもない龍之助と松之助を心底から可愛がってくれるだけでもありがたいと思ってるのに―」
「馬鹿野郎、こんなときにそんなことを言うな」
 源治の鋭い声がお民の言葉を遮った。
「俺は龍も松も二人とも俺の子だと思ってる。だから、石澤の屋敷にも行ったんだよ」
「そう、でしたね。済みません」
 言うなり、もう耐えられず、お民は嗚咽を洩らした。
「とにかく、明日の朝にでももう一度、行ってみらあ」
 そう言った源治に、お民はそっと首を振った。
「もう、止めましょう」
「―」
 刹那、源治が信じられないといった面持ちでお民を見た。
「あの人、龍之助を連れてった人が言ったように、諦めましょう。龍之助なんて子は端からいなかった。私たちの子は松之助一人だったって」
「馬鹿なことを言うな! 俺たちの子は龍と松、二人揃って初めて当たり前なんじゃねえか。何を血迷ったことをぬかすんだ、お前は」
 お民は泣きながら、源治を見た。
「私だって、心からこんなことを言ってやしませんよ! だけど、だけど、あの石澤嘉門という男は怖ろしい人です。これ以上、お前さんが龍之助のことで何か言いにいったら、お前さんの身に何があるか判らない。水戸部さまは、はっきりとそうおっしゃったのでしょう? それに、花ふくがどうなるか判らないとも。それは、多分、単なる脅しじゃありません。きっと、本当のことでしょう。あの男なら、やりますよ。目的を遂げるためには手段を選ばない怖ろしい男です。―だったら、龍之助を諦めるしかないじゃありませんか。龍はあそこのお屋敷のお世継の若さまとして迎えられたんですから、龍が粗略に扱われることはないでしょう。遠く離れていても、あの子が無事だというのなら、もう諦めた方が良い。お前さんやこの店を危険に晒してまで、もうあの子を取り戻すことはできませんよ」
 お民は、嘉門の底知れなさ、目的のためには、どこまでも容赦なくなれる気性を誰よりも知っている。最初にお民を手に入れるときも、徳平店の取り壊しとお民の身柄を引き替えにしてきたほどの男なのだ―。
「だが、お前―」
 それで良いのか。
 とは、源治はきかなかった。
 多分、訊こうとしても、訊けなかったのだろう。
 そのときのお民は自分では判らなかったが、それほどに思いつめた顔をしていたのだ。
「良いの」
 お民は眼を瞑った。
 何かに耐えるような顔でしばらくうつむいていた。
 龍之助と過ごした二年間が脳裡を走馬燈のようによぎってゆく。笑い顔、泣き顔が瞼から離れなかった。
 あの子をもういないものとして、今日からは生きてゆかねばならない。それは、どんなに辛く哀しいことだろう。
 そんな妻を、源治は痛ましげに見つめている。
 部屋の片隅に小さな文机があり、その上には美濃焼の花器が乗っている。黄色の花がひと枝、無造作に投げ入れられていた。
それは、おしまが鳴戸屋の内儀から貰ってきたものだった。おしまは早くに脚腰を痛め、店の仕事が思うようには手伝えない。飯屋ではずっと立ち仕事になる。立ちっ放しは無理なのだ。
 そのため、おしまは二階の部屋で仕立物の内職を身体に負担のかからない程度にしていた。店が忙しい時分、龍之助と松之助は大抵、二階でおしまが面倒を見てくれている。
 それでも、お民が花ふくに来るまでは、おしまが店の仕事を手伝っていた。が、寄る年波に持病が悪化し、どうしても無理がきかなくなったため、新しく仲居を雇い入れることにしたのである。
 お民が螢ヶ池村で暮らしていた間、店の仕事は、おしまの妹のおしかが手伝いに来ていた。おしかは小さな煙草屋に嫁いでおり、亭主は既に亡くなっている。現在は長男夫婦や孫と暮らしていて、悠々自適の隠居暮らしであった。
 鳴戸屋の内儀おえんは、おしまの得意の一人で、しばしば仕立物の注文をくれる。そのおえんが昨日、仕立物を受け取りにきたついでに、庭から伐ったばかりだという金木犀を持ってきたのである。
 春の沈丁花と並び、秋を象徴する強い香りを持つ花だ。うっとりとさせる香りで、人を魅了するにも拘わらず、花そのものは素朴で、どこか初々しい少女を彷彿とさせる。
 ほの暗い部屋の一角に、ひっそりと浮かび上がる黄金色の花。その花をお民も源治もただ黙って見つめていた。
 夜明けの光が窓に填った障子濃しに差し込んでいる。お民はともすれば溢れそうになる涙をこらえながら、次第に明るさを増してくる朝の光に眼を細めた。
 
 結局、源治は左腕を骨折していた。痛みがどんどん烈しくなり、さしもの我慢強い男も根を上げて近くの町医者に診て貰いにいったら、案の定、骨を折る大怪我であった。
 利き腕ではなかったのと、医者の診立てでは、左官の仕事にも影響が出るような後遺症はないだろうとのことに胸を撫で下ろした。
 それにしても、石澤嘉門とは怖ろしい男だと、お民はつくづく思い知らされた。白い包帯で腕を吊っている源治の姿は痛々しい。左眼の回りの腫れもいまだ引かず、小さな擦り傷、切り傷ならば数知れなかった。
 源治のそんな姿を見る度に、お民は哀しいけれど、龍之助のことは諦めるしかないのだと思うのだった。
 これ以降、龍之助は石澤家の世継として育てられることになる。いかに冷酷な嘉門や祥月院といえども、龍之助は彼等のれきとした血を分けた子であり、孫である。ましてや、あれほど石澤家の跡目を継ぐべき世継を欲していたからには、龍之助は大切に育てられるのではないか。
 せめて今はそう思うことが、お民のたった一つの救いでもあった。
 源治はしばらく仕事には出られない。というわけで、腕が治るまでは、徳平店で日がな過ごすことになった。とはいっても、お民は一日中、花ふくの方で働いているため、源治が一人で留守番をするといった恰好になる。
 そんなある日のことだった。
 龍之助がおらぬまま日は過ぎ、いつしか半月が経っていた。
 夜半、お民は眠れぬままに床の中で幾度も寝返りを打った。まだ神無月の半ばではあったが、その夜は夕方から風が出て、空も鈍色の雲が低く垂れ込め、江戸の町の上を覆っていた。まるで気分まで陰鬱になるような空の色であったが、いつものように閉店間際に迎えにきた源治と共に、徳平店に戻った。
 松之助を背に負うた源治と並び、暗い夜道を物も言わずに辿った。松之助と龍之助は双子だけに、眉目形が酷似している。時折、松之助を?龍(た)っちゃん?と呼んでしまい、ハッとすることもあった。
 まだ二歳の来ぬ幼児が兄の不在を理解しているかどうかは判らない。それでも、生まれる前からいつも一緒であった兄がおらぬことを、松之助なりには判ってはいるらしい。
「おっかちゃ、兄ちゃはどこにいるの」
 あどけない声で最初に問われた時、お民は言葉を失った。
「兄ちゃんは遠いところに行ってしまったんだよ」
 やっとの想いでそれだけを応えた。
 が、しばらくして更に松之助は訊ねてきた。
「もう、帰ってこないの?」
 その言葉に、お民は凍りついた。