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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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―龍之助、一体、今、どうしているの? 
 お民は心の中で連れ去られた我が子に呼びかける。
 また風が吹いて、お民の傍を風に乗って花の香りが流れ過ぎていった。
 華やかな中にも物寂しさを感じさせるような花の姿を、お民は思い浮かべていた。

     【弐】
 
 その夜半のことである。花ふくの二階の一室で、お民と源治は向かい合っていた。
 結局、その日、お民は徳平店に戻らなかった。いつものように店じまいをする夜四ツ少し前、花ふくに迎えにきた源治に、お民はすべてを伝えた。本当は龍之助が石澤家の侍たちに連れ去られた直後に仕事場まで知らせようかと思ったのだけれど、それは止めた。
 今、源治に急を知らせても、何も事態が変わるわけでもない。かえって龍之助の身を案じた源治が他のことに気を取られて足場から落ちでもしたら、一大事だ。
 案の定、源治は
―何でもっと早くに知らせなかったんでえ。
 と、お民を烈しく詰(なじ)った。
 水戸部たちが龍之助を連れにきたのも花ふくだったので、もし何か連絡があれば、こちらにいた方が良いのではないか。
 岩次がそう言い、その夜は花ふくで厄介になることにしたのだ。
―お民ちゃん、源さん。済まねぇな。俺ァ、龍坊がみすみす連れてかれるのを止めることができなかった。許してくんな。
 岩次はまるで龍之助が連れ去られたことが我が責任のように言い、涙ぐんで肩を落としていた。
 だが、岩次やおしまには何の拘わりもないことだ。むしろ、自分たち母子のために、何の関係もない花ふくを巻き込んでしまって、申し訳ないと思っているお民である。
 二人とも、岩次が作ってくれた晩飯も全く喉を通らなかった。世継として迎え入れるのだと言っていた水戸部の言葉から、龍之助の身に何らかの危険が及んでいるとは考えがたいが、二歳の襁褓も取れてはおらぬ幼子が突如として親から引き離され、見も知らぬ屋敷でどのように心細く過ごしているのかと考えただけで、不安で胸が張り裂けそうになる。
 二人はかれこれ一刻余りもの間、押し黙ったまま座り込んでいた。
 松之助は、おしまが預かってくれている。
 あれから石澤家からは何の連絡もない。
 当然といえば当然のことだが、これで石澤家が龍之助の身柄をこちらに返す気は一切ないのだと向こうの思惑をまざまざと思い知らされたようだ。
「済みません。私がついていながら、こんなことになっちまって」
 このまま黙ったままでいれば、狭い部屋に満ちた静寂に押し潰されてしまいそうで。
 お民は、やっとの想いで口にする。
 と、源治がおもむろに立ち上がった。
「ちっとばかり行ってくらぁ」
「お前さん、行くって、一体どこに」
 お民が縋るようなまなざしで見上げると、源治はニと唇を笑みの形に引き上げた。
「決まってるだろうが。石澤とやらの侍の家に行くのよ」
「でも」
 源治一人で乗り込んでゆくのは、あまりにも無謀すぎるのではないか。
 お民が言いかけると、源治は口をぐっとへの字に曲げた。こんな顔をすると、普段は徳平店の連中のよく知る物静かで沈着な男の貌から、正義感の強い、結構な意地っ張りへと変わる。
「手前(てめぇ)の倅が理由(わけ)もなく突然、かどわかしも同然に連れてかれたってえんだ。これが大人しく引き下がれるわけないだろう」
 源治が威勢よく啖呵を切ると、お民は自分も立ち上がった。
「私も行きます。私も一緒に連れていって下さい」
 源治が真顔になって首を振った。
「お前はここにいろ」
「でも、龍之助は私の産んだ子です」
 源治があの子を取り戻しに行くというのなら、自分だって―、そう言おうとしたお民の頭に源治の分厚い手のひらが乗せられた。
「あの石澤って男には、お前はむやみに近づかねえ方が良い」
 そのときの源治の瞳には強い決意が漲っていた。
―どんなことがあっても、俺はあいつにお前を渡さねえ。
 男の気持ちが切ないほど伝わってきて、お民は静かな衝撃を受けた。
 良人の気持ちが判るだけに、お民はもうそれ以上、自分も連れていって欲しいとは言えなかった。
「お前は、ここで俺と龍の帰りを待ってろ、なっ」
 まるで幼子を諭すように言われ、お民は力なく頷いた。
「―十分、気をつけて下さいよ。相手は刀を持ったお侍ですから」
 龍之助を攫った憶えなどないと突っぱねられ、最悪の場合、言いがかりをつけた無礼者としてその場で手討ちになったとしても、文句は言えない。―それが、当時の封建社会の武士と町人の身分差が生む理不尽さの最たるものであった。
「判ったよ」
 源治はお民を安堵させるように笑い、部屋を出ていった。
 それから夜明け前に源治が戻ってくるまでの時間が、お民には永遠にも続く果てのないもののように思えた。
 気を利かしたおしまが客用の夜具を用意してくれたものの、むろんのこと、眠れるはずもない。
 東の空が白々と明るくなる頃、源治は漸く帰ってきた。その力ない脚取り、龍之助の姿がないことからも掛け合いが不首尾に終わったことは判った。
「済まねえ。龍を連れて帰れなかった」
 源治はがっくりと肩を落とし、その場にへたり込んだ。胡座をかいてうなだれる男の貌には疲れと焦燥が強く滲み出ている。
 源治は石澤邸を訪れた際の事を訥々と語った。
 門番に事の次第を話し、当主の嘉門に逢わせて欲しいと対面を願い出たところ、取り合っても貰えない。
 仕方なく、源治は門前に座り込んだ。胡座をかいて両眼を閉じ、延々と座り続けたという。それでも、いっかな埒があかないので、今度は大声でわめき立てた。
―ここのお殿さまは、泣く子も黙る天下の御家人のくせに、人攫いのような真似を平気でなさるってえんだから、こいつは愕きだぜ。おい、俺の子を返せ。俺のガキがこの屋敷にいるはずなんだよ。他人(ひと)の子を勝手に連れてくな。龍を返せったら、返せ。
 流石に、源治を無視していた門番たちもこれには慌てて、奥にお伺いを立てに引っ込んだ。何しろ、周囲は大名の上屋敷などの武家屋敷ばかりが建ち並ぶところで、そのようなことを門前で大声で叫ばれては、外聞も悪い。
 ほどなく、用人だという水戸部邦親が例の数人の手練れの若侍たちを連れて出てきた。
 顎をしゃくった水戸部に指図され、源治は男たちに寄ってたかって、滅多打ちにされた。
 とはいっても、端から源治の生命までをも奪うつもりはなかったようで、数回殴られ、蹴られたところで突き放された。
 去り際、水戸部は冷淡な声音でこう言ったそうだ。
―これ以上、しつこく詮索するなら、そのときは、今度こそ、そなたもただではあい済まぬぞ。花ふくも店がたちゆかなくなるようになるだろう。若君のことは、諦めることだ。
「お前さん、大丈夫ですか?」
 お民は源治に事の次第を聞いて、初めて我に返った。よくよく見ると、源治の左眼の縁(ふち)が紫色に変色し、腫れ上がっている。着物もあちこち泥だらけで破れ、薄く血が滲んでいた。
「酷い―、何もここまですることはないのに」
 お民は源治の無惨な姿を見て、涙が込み上げた。 
「なに、俺の怪我はたいしたことじゃない」
 そう言って左手を動かそうとした源治が?ツ?と小さく呻いて顔をしかめた。
「大丈夫ッ、お前さん」