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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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「ホウ、そのようなたわ言でそれがしがあっさりと引き下がるとお思いにござりますか。お方さまが我が殿のご側室であったことは誰もが周知のこと。更に、その後、お方さまがお屋敷をお出になられた後、殿といかようなる拘わりがあって、ご懐妊に至ったかも我らは存じておりまする。一連のことは、お方さまの意に添わぬ出来事であったやもしれぬとそのお心をお察し致してはおります。その上で、それがし、今日はお方さまにこうして頭を下げてお願いに参りました」
 水戸部は白髪頭を深々と下げた。
「お方さまも既にご存じのごとく、当家にはいまだにお世継ぎとなるべき若君がお一人もおられませぬ。殿もはや、おん年三十九をお迎えになられました。殿のおん母君の祥月院さまも一日も早いお世継さまのご生誕を願われておいでにござりますが、残念なことに、お方さま以外に殿がお心を動かされた女人はおらず」
 嘉門の母祥月院お藤の方。お民を大切な一人息子を誑かした性悪女と断じ、何かにつけて苛め辛く当たったひとだった。
 お民の胸に石澤家で祥月院に投げつけられた心ない言葉や受けた仕打ちの数々が苦く甦る。
 あの女はいまだに嘉門の子誕生、石澤家の世継を諦めてはいないのだ。
 お民は膝の上で握りしめた拳に力を込めた。
「そちらさまのお家のご事情は私には一切関わりなきこと。私は三年前、永のお暇を賜ったそのときから、既に石澤さまとは何の縁もゆかりもなき身にございます。ましてや、その後に生まれた倅どもは石澤さまのお家とは何の関係もございません。どうか、この場はお引き取り下さいませ」
 お民の言葉に、水戸部の眼が光った。
「お方さまがあくまでもそのように仰せられるのであれば、是非もないことにござります。この水戸部、家老の新田どのを初め、重臣のお歴々ともよくよく談合を重ね、今回の役目を仰せつかりました。最早、殿に新たなお世継を期待することも叶わぬ上は、こちらにおわす若君のお一人をご世嗣としてお迎えするしか道はないと判断に至った次第。それがしも子どもの遣いではござらぬ。若君をお連れすることができぬでは、この皺腹をかっさばいてお詫びしてみたところでは済みませぬ」
 水戸部は立ち上がると、顎をしゃくって見せた。
 と、いつのまに外に控えていたのか、わらわらと数人の武士が店の内になだれ込んでくる。
「申し訳ござりません。できれば、このような力づくでという方法は取りたくはござりませんでしたが、致し方ない」
 水戸部が合図すると、屈強な男たちの中の二人が店から二階へ続くと階段を駆け上ってゆく。二階には、岩次と龍之助がいるはずだ。
 ほどなく、悲鳴や怒号が二階で響いた。
 悲鳴は、内儀のおしまのものに違いなかった。
 龍之助を腕に抱いた男が階段を降りてくる。もう一人の男がその後に続いた。
「何するんでぇッ」
 岩次が怒鳴りながら、二人の後を追いかけてくる。 
「止めて、あの子を連れていかないで」
 お民は絶叫した。
「お方さま、このような酷いことをする水戸部をどうかお恨み下され。それがし、畏れながら早くにお父君を亡くされた殿を我が子ともお思い申し上げて今日までお仕えして参り申した。殿のおんため、お家のおんためであれば、この身はいかようなる憎しみも受ける覚悟にござります」
 水戸部が頭を下げ、踵を返した。
 逞しい男に抱えられた龍之助は、火が付いたように泣き喚いていた。無理もない。いきなり出現した侍に有無を言わさず抱きかかえられ、連れ去られようとしているのだ。
「待って、お願い。龍之助を返して」
 お民が追い縋ろうとするのを、別の侍が両手を広げて押しとどめる。その間に、龍之助を抱えた男は素早く外に出た。
「おい、待ちな。どんな事情があるのかは知らねえが、公方さまにお仕えする天下の直参が人攫いのようなことをしでかして、その名が泣くとは思わねえのかい」
 岩次がお民の前に立ちはだかる男の傍をすり抜け、外に躍り出た。
 叫びながら龍之助を抱えた男に食らいついてゆこうとすると、更に別の侍が岩次を後ろから蹴り上げた。
 岩次の小さな身体が数歩先に投げ出される。
「旦那さんッ」
 お民は悲鳴を上げて、岩次に駆け寄った。地面に倒れ伏したまま、岩次は微動だにしない。
 その隙に、男たちは風のように駆けていってしまった。
「旦那さん、旦那さん?」
 お民は狂ったように岩次の名を呼び続ける。こんな状態になった岩次を到底、一人にしておけるものではない。
「お民ちゃん、儂のことは良い。大丈夫だ、龍坊を、龍坊を取り戻してこねえと」
 岩次がうっすらと眼を開けて訴えた。
 お民は迷った末、駆け出した。
 既に水戸部はむろん、店の内に雪崩れ込んできた侍たちは皆、かき消すようにいなくなっている。龍之助を抱いた男もやはり、どこにもいない。
 お民は夢中で走った。
 途中で転び、草履の鼻緒が切れると、やむを得ず片方は裸足のまま走った。髪を振り乱し、片方裸足で町の往来を走る女を、行き交う人々が唖然として見つめている。
 恐らく今のお民は狂女のように見えているだろう。
 それでも構いはしない。が、ふいに背中で烈しい泣き声が聞こえてきて、お民は現実に引き戻された。
 どうやら松之助が午睡から目覚めたようだ。あれだけの騒ぎがあったにも拘わらずよくぞ起きなかったものだと思うが、この松之助は大人しい割に、このような肝の据わったところがあった。
 やんちゃな癖に怖がりの龍之助とは正反対の性格だ。
 お民はその場に立ち止まった。
 よしよしと、背中の松之助を揺すり上げる。
 松之助も兄の身に起きた異変を察知しているのか、泣き方が尋常ではなかった。
 いつしか、お民は鳴戸屋という海産物問屋の前に立っていた。ここは錚々たる大店がひしめく町人町の中でもとりわけ名の知れたお店(たな)ばかりが軒を連ねる大通りで、人の行き来も多い。
 考えてみれば、闇雲に追いかけてきたけれど、水戸部たちがどこに消えたのかは判らないのだ。常識的に考えれば、町人町とは真反対の和泉橋町の方を目指したはずだ。町人町を抜けると、和泉橋という小さな橋一つ隔てた向こう側にひろがる閑静な武家屋敷町、その一角に石澤嘉門の屋敷もある。
 お民は自嘲気味に笑った。
 鳴戸屋は構えも大きく、その庭も豪勢なものだという。何しろ、四季折々の花が植わっていて、屋敷にいながらにして花見や紅葉狩りができると云われているほどなのだ。
 ふいに涼しい風が吹き抜け、得も言われぬ香りが鼻腔をくすぐった。
 鳴戸屋の庭の方から、濃厚に流れてくる花の匂い。
 この匂いは、金木犀。
 秋になると、黄色い小さな花をいっぱいにつけ、黄金色(きんいろ)に染まった真綿をこんもりと被せたように見える花。
 お民は小さく息を吸い込む。不安と絶望でどす黒く染まった心に、一幅の清らかな風が吹き込んできたような気がする。
 松之助を背負い、龍之助を花ふくの前で遊ばせている時、風に乗って運ばれてきたのは、この金木犀の香りだったのだろう。
 お民はまだ愚図る松之助をあやしながら、力ない脚取りで帰り道を辿り始めた。
 今、ここでむやみに龍之助を捜し回っても、見つけることはできないと判断したからだ。