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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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 家を出て丘を降りてゆくと、村の本道をみ、螢ヶ池に出る。折しも池の面は薄紅色花が一面に咲いている。朝露を帯びて開くは清浄可憐でありながらも、どこか艶めいいて、まさにこの世の極楽浄土はさもありんといった風情であった。
 たくさんの薄紅色の花に混じって、所々白い花が見える。清しい白が清冽に眼を射た。 お民はしばし魅入られたように、この世ものとも思われぬ夢のような光景を凝視た。
 あれは何の鳥だろうか、どこからか飛んきた蒼っぽい鳥が水面すれすれに翼を大きひろげて旋回する。
 しばらく眼で追っている中に、もう一羽空から舞い降りてきた。戯れ合うように、つれ合うようにしながら水面に浮かんでいかと思うと、二羽の鳥は羽ばたき、再び天くへと飛翔する。鳥たち
は直に雲の彼方へと吸い
込まれるように消えた。
 一抹の淋しさを憶えて
小さな吐息を洩らした時、
ふと肩に置かれた手の温
もりがあった。
「―こんなところにいた
とは、本当にお前にはび
っくりさせられどおしだ」
 懐かしい、深い声。心
に滲み入るような声だ。
 この声をどれほど聞きたいと、恋しいとがれたことだろう。
 お民は肩に乗せられた手のひらに自分のを重ねた。
 今だけ、今のこの瞬間だけは、この温もに甘えさせて。すぐにこの手を放すから、めて今だけは―。
 自分で自分に言い訳しながら、源治の手温もりの心地良さを全身で感じた。
「随分と探したぜ」
 源治の声には、苦渋が滲んでいた。
 大好きな男をまた困らせてしまった―、の意識が湧き上がる。
「履物屋の伊佐さんからの情報でよ、どうらお前らしい女がここにいるって聞いて、も楯もたまらなくなって来てみたんだ。も藁にも縋る想いだった」
 履物屋の伊佐蔵は、月に一度、村の女たの編んだ草鞋を買い取りにくる江戸の商だ。小さな店を営んでいると聞き、奉公人数も少なく、主人自らがこうしてわざわざを運んでくるのだと聞いたことがある。
 まさか、あの男から源治に知れるとは思もしなかった。大体、伊佐蔵と源治が知りいであったことも、お民の与り知らぬことあった。
「仕事帰りにたまに寄る縄暖簾で顔馴染みなってな。お前には話したことはなかったがそれがかえって幸いしたぜ」
 と、源治は悪びれた風もなく屈託なく笑う確かにそうだろう。源治と伊佐蔵が知り合であると判っていれば、お民は源治がここ来る前に、この村から出ていっていたはずだ。「お前、今、俺がここに来る前に、とっと逃げ出しちまえば良かったって思ってるだう」
 指摘され、お民は笑った。
「どうやら図星のようだな」
 源治の声も笑いを含んでいる。
「どれ、顔を見てみよう」
 源治がお民の身体に両手をかけ、くるり回し自分の方へと向かせた。
「お前は考えてることが全部、顔に出ちまう嘘のつけねえ質の女なんだ。子どもみてえところは、ほんとに、変わっちゃいねえな」 揶揄するように言われ。
 お民は頬を膨らませた。
「まあ、酷い。久しぶりに逢ったっていうに、お前さんの口の悪さも相変わらずですね」 こうして軽口を交わしていると、すべて嘘、悪い夢のような気がする。石澤嘉門と拘わりも、嘉門の子を身籠もり源治の許をび出してきてしまったことも。
 そう、すべてがめざめて終わる夢ならばどんなにか良いだろう。
 あれほど逢いたいと願った男の顔が眼のにある。本当に夢を見ているようだと、おは茫然と思った。
「また、きれいになったな」
 いきなり直截に賞められ、お民は頬を染た。
「いやだ、何を言うかと思ったら、今度は世辞ですか」
「馬鹿言え。手前の女房に世辞まで言って今更口説いて何になる。俺はお前と一緒でなんかつけねえ。上に何とかがつくほど正なのはお互いさまだよ」
 源治が笑いを含んだ声で言う。その視線すっと動き、大きく膨らんだ腹の上で吸いせられるように止まった。
「腹、大きくなったな。何ヶ月になるんだけ。俺は男だし、父親になったことがねえら判らないが、腹の赤児が動いたりするんって? そいつもやっぱり動くのか」
 刹那、お民の顔が強ばり、さっと蒼褪めた。「お前さん―」
「触らせてくれねえか」
 予期せぬ展開に、お民は言葉を失う。
 源治がそろりと手を伸ばし、お民の丸い腹に触れた。
 その瞬間。
 腹の赤児が元気に、いつもよりひときわきく内側から腹壁を蹴った。
「おっ、動いたぞ。凄ぇなあ。こいつ、もう俺のことが判るのかもしれねえ。さぞかし利口なガキになるぜ。おい、判るか、俺が前の父ちゃんだぜ」
 膨らんだ腹に向かって相好を崩して呼びける姿は、まさに、初めての子の誕生を待侘びる若い父親そのものだ。
「お前さん、それは!」
 お民が首を振った。
 できない。源治の一生を台無しになんてきない。源治が腹の子の父親になろうとま言ってくれるのは嬉しい。でも、その優しに甘えてしまっては駄目だ。
「お民、また一緒に暮らそう」
 源治のきっぱりとした物言いに、お民はぶりを振る。
「それはできないわ」
「何故だ? 生まれてくる腹の赤ン坊と親三人で暮らせば良いじゃねえか。そうすれば腹の子は父親を失わずに、俺はお前を失わに済むんだ。お前が江戸に帰るのが厭だっいうのなら、俺はここに住んでも良い。なに仕事なら何とかなる。畑でも田んぼでも耕て、俄百姓になるさ」
「―お前さん、そこまで」
 言葉こそ穏やかであったが、源治の瞳に揺るがぬ決意が既に込められている。
 源治の気持ちは死ぬほど嬉しい。だが、当にその気持ちに寄りかかってしまってもいのかと、まだ一抹の迷いがある。
「―こんな私で良いの?」
「俺にはお前しかいねえ。いつかも言ったろう? 俺がお前の笑顔を一生守るって」 お民の脳裡に、初めて源治に想いを打ちけられたときの言葉が鮮やかに甦った。
―お前の笑顔が良いんだ。
―私の笑顔がなくなっちまったら?
―そしたら、俺が笑わせてやる。
 ふいに懐かしい甘やかな記憶が呼び起これ、思わず泣き出してしまいそうになる。 ふっと涙ぐんで笑う。
「馬鹿だねえ。他の男の子を身籠もった女引き受けようだなんて」
「馬鹿でも良いよ。俺は一生、お前に傍にて欲しい。いつも俺と一緒にいて、お前のった顔を見ていてえんだ。それにな、正直うと、俺ァ、一日も早く、てて親ってものなってみたかったのさ」
 源治は幼い時分に父を失くし、母親は苦して女手一つで二人の子を育てたという経がある。
 一日も早く我が子をその腕に抱きたいとっていたという源治。でも、源治はお民にれまで一度もそんなことを言ったことはなった。所帯を持ってから、お民はなかなかができないのを気にしていた。源治は、おの焦りと不安を誰よりよく知っていたのだ。 それなのに、自分はいまだに源治の子をむことができないでいる。源治の女房となてから二度も身籠もったのに、その子はすて石澤嘉門の種だった―。
 暗澹とした想いに沈むお民の耳を、源治しみじみとした声が打った。
「だから、お前に子ができたと知って、嬉くもあるんだぜ」
「でも、お前さん。この子は―」
 ふいに強い力で引き寄せられ、顔を覗きまれた。
 心に反して振り払おうとしたけれど、男手は強く身体を包み込み、容易く外れないガのようだ。その力が心地良い。