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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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 たとえ当人のおらぬ場所では?半ペン?と呼んでいても、ここは下手に出なければならない。お民が慇懃に礼を述べ淑やかに頭を下げたその時、奥から呼び止められた。
「おい、待て」
 お民は訝しげに声のした方を見る。刹那、お民はハッと息を呑んだ。
 店の奥には昼間だというにも拘わらず、薄い闇が溜まったような暗がりが巣喰っている。その闇からスと抜け出して唐突に現れた人影を見るなり、お民は思わず悲鳴を上げそうになった。まるで闇そのものが凝(こご)って人の形を取ったようでもあり、闇に潜んでいた魔性の者が立ち現れたかのようでもある。
 その男は、それほどの禍々しさを全身からゆらゆらと立ち上らせていた。何かを燃やし尽くした後の灰(かい)塵(じん)の色を宿した瞳が困惑するお民を見下ろす。まるで値踏みするような冷たい眼つきだった。
「女、そなたは何ゆえに、そのようなことをしておるのだ」
 初め、お民は男の発した問いの意味が判らなかった。
 小首を傾げるお民に向けられた男の表情がわずかにやわらぐ。殺気すら漂わせていた剣呑な瞳がやや細められた。それはよくよく注意して見ていなければ見落としてしまうほどの些細なものだったけれど、お民は男の表情の変化を見逃さなかった。
 お民が男の言葉の意味をなおも計りかねていると、男が口の端を引き上げる。当人は笑っているつもりなのかもしれないが、ちっともそんな風には見えず、皮肉げに口許を歪めただけのようにしか見えない。
「そのような紙でできた花を幾本作ろうと、所詮は、はした金にしかならぬであろうに。身を粉にしてせっせと作って、一体、いかほどの金になろう」
 そこまで言われ、お民はやっと男の問いを理解した。
 紙の花を作るような内職をして一体、どれほどの賃金になるのだ、労を要する割には、収入は知れているだろう―と、皮肉られているのだ。
 刹那、お民はムッとして、腹立ちを抑え切れなかった。
―私が何をしようと、あんたには拘わりのないことでしょ。放っておいてよ!! そういうのが小さな親切、大きなお世話よッ。
 と持ち前の気丈さで威勢よく返してやりたかったが、流石にこの場ではそれもできそうにない。
 相手の男はどう見ても武士、しかも上物の着物を身に纏っていることからして、身分のある侍のように見える。ここで面と向かって楯つくのが利口なやり方ではないことは、お民にだとて判る。
「お言葉にはございますが、お武家さま。お武家さま方にはお武家さま方の暮らしがあるように、私ども町人には町人の暮らしがございます。お武家さま方が大切に思し召される物と我ら町人が大切にする物がそれぞれ異なるように、自ずと価値観も違いましょう。私は私の大切に思う家族のために、引いては自分のために日々働き、こうして生活の糧を得ております。そのことを他の方にとやかく言われる筋合はございません」
 と、脇から、三門屋が素っ頓狂な声を上げた。
「旦那さま、申し訳ございません。何分、礼儀も何もわきまえぬ町家の女の申すことにございますゆえ、お許しのほどを」
 お民の言い様があまりに直截であったため、怒り狂った男がこの場で抜刀でもしてはと危ぶんだからに相違ない。
 さして広くはない三門屋の店内に異様なほどの気づまりな沈黙がひろがった。誰かが指で少しつつけば、すぐにでもパチンと音を立てて割れそうな緊張感を孕んでいる。
 突如として、その沈黙を大きな笑い声が破った。男は何がおかしいのか、お民を見つめて声を上げて笑っている。
 三門屋に比べれば、ゆうに頭二つ分は上背があり、身の丈の高い源治と比べても同じくらいだろう。小麦色の膚に切れ長の二重の眼(まなこ)は生っ白い三門屋と並ぶと実に対照的で、精悍なという形容がふさわしいのかもしれない。
 が、その瞳は怖ろしいまでに冷え冷えとして、その鋭い視線に見つめられただけで瞬時に身体の芯から凍りついてしまいそうだ。
 燃え尽きた後の空しさとでもいうのだろうか、瞳の中に虚無感さえ湛えた醒めたまなざしに見つめられると、普段から怖いもの知らずのお民も知らず膚が粟立つようだ。
 男はお民に鋭い視線を注ぎながら、ひとしきり笑っていた。嘲りとも取れるその乾いた笑いもまた不気味で、地獄の底から響いてくるかのような声に思わず耳を塞ぎたくなってしまう。
 その場を取り繕うような三門屋の声が、際限もなく続いてゆきそうな男の笑い声を遮った。いつもは要らぬお喋りばかりして―と三門屋の長口舌を苦々しく思うお民もこのときばかりはホッとしないわけにはゆかない。
「旦那さま、どうぞ中にお戻り下さいませ。このような店先でお話ししただけでお帰り頂いたとあっては、この三門屋の面目が立ちませぬ。ささ、どうか」
 三門屋に促され、?うむ?と男が立ち上がる。三門屋が眼顔で帰れと言っているのが判り、お民は丁重に頭を垂れた。
「それでは失礼致します」
 店を出てゆくお民にはもう一瞥もくれず、男は三門屋の後に続いた。
「あれが例の女でございます」
 三門屋のいきなりのひと言に男は愕きもせず頷いた。
 男はしばらく声もなかったが、やがてポツリと洩らす。
「実に面白き女子だな。俺を相手に臆しもせずに、ああも堂々と物を言うとは珍しい。この面構えのせいで、大概の女は俺を怖がり、見つめれば怯えて眼を逸らす。だが、あの女は負けずに俺の方を睨み返してきおった。マ、いささか無礼なのは確かに癪に障るが、あの受け応えは打てば響くがごとくで悪くはない。俺は上辺が美しいだけの愚かな女よりは、利発な方が好みだからな」
「見場より心映えにございますか? とは申せ、あの女、なかなかの別嬪にはございますよ」
 三門屋が調子を合わせると、男が口許を歪める。
「それに良い身体をしておる」
 卑猥な笑みを浮かべる男をチラリと上目遣いに見上げ、三門屋は機嫌を取るように言った。
「石澤さまは、あのような女子がお好みだとかねてよりお伺いしておりましたものでございますから」
 また短い沈黙があり、男が低い声で言う。
「惜しいことをしたものだな」
 あろうことか、この男こそ、かつて三門屋がお民に妾奉公に上がらないかと訊ねた旗本石澤嘉門主衞(かずえ)その人だったのである!
 嘉門の静まり返った面には、さざ波ほどの変化もない。
 三門屋はその顔色を窺うように見返しながら続けた。
「お気に入られましたか」
 また、沈黙。
 ややあって、嘉門が頷いた。
「―気に入った」
 二年前、お民に妾奉公に上がってみないかと言った時、三門屋は嘉門にもお民の存在をそれとはなしに話していた。
 長らく忘れていたその女の存在を、どうやら嘉門は俄に思い出したらしい。
「三門屋、あの女子、何とかして手に入らぬものかの」
 嘉門の好き者そうな眼がかすかに細められ、三門屋を見つめる。
「はあ、と仰せになられましても、実はあの女は既に一年前に所帯を持ち新しい良人がおりまして」
 口ごもる三門屋に、嘉門は底光りのする眼を酷薄そうに光らせた。
「礼金は弾もう。その方の望みのままに」
 嘉門は懐に手を突っ込むと、無造作に巾着を取り出し、それを三門屋の前に放った。
 嘉門の家は直参旗本で五百石、譜代の家柄ではあるが、石高もそれほど多いわけではない。