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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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 源治の揶揄するような言葉に、お民は良を肘でつついた。
―まぁ、よく言う。
―だって、お前の顔の方にこそ何か書いてるぜ。
―えっ。
 お民が愕いて頬に手を添えると、源治が笑いした。
―俺のことが好きで好きでたまらねえ、おは源さんに心底惚れてますって書いてああ。
―お前さん、また私をからかったんですねもう、知りません!
 お民がむくれると、源治が笑い転げなが言う。
―ちったァ、良いじゃねえか。所帯を持つは俺がさんざんお前にからかわれてたんだら。これくらいは可愛いもんだぜ。
―あれは、からかったんじゃありません。気でお前さんのことを思って言ってたんでよ。親切、親切。
 そこまで言って、二人は顔を見合わせてひとしきり笑った。
 笑いながら、お民は涙を流していた。
―何だよ、どうして、泣くんだ?
―あんまりおかしかったから、涙が出ちまたんですよ。
 我ながら、あまり上手くない言い訳だとったけれど、他に思いつかなかった。
 源治は訝しげにお民を見つめていた―。 あのときの源治の笑顔を思い出しただで、胸が締めつけられるように切ない。
 何も知らぬ良人を、お民は騙しているのだ。 腹の子を堕ろすつもりはなかった。嘉門の間に最初に身籠もった子を、お民は酷い法で抹殺してしまった。結果的にお民は何したわけではないけれど、一度は腹の子もとも死のうと自害しようとしたことさえる。
 実の母親に疎まれながら、この世の光をることもなく逝った子が哀れでならなかた。もう、あのときと同じ過ちは繰り返しくはない。
 しかし、源治もまた、お民にとっては大な―恐らく、自分自身よりも大切な存在だその源治を裏切ることはできない。
―そなたはもう、この俺から逃れられぬ。 ふいに嘉門の?い声が耳奥で響く。
 三月前、出合茶屋で手込めにされた夜、門の囁いた科白をふと思い出した。
―そなたの身体は既に俺に馴染んでいる。になって亭主の許に帰ったとしても、昔のうに恋しい男と暮らせるとは思うな。
 これと同じ夢に、お民はしばしばうなさた。
 夢の中で、お民は一糸纏わぬ姿となり、門に組み敷かれている。
 お民の耳許で嘉門は執拗に囁き続けるだ。
―そなはもう、この俺から逃れられぬ。
 お民は、いつまでも消えぬ嘉門の声を振払うように、首を烈しく振り、両耳を手のらで塞いだ。
 腹の子は、石澤嘉門の子だ。三ヵ月前ののたった一夜で、お民はまたしてもあの男子を宿してしまったのだ。
 それは、まさに運命の皮肉としか言いよがなかった。嘉門は己れの存在をお民の中はっきりと灼きつけたのである。
 嘉門の子を身籠もったお民がどうして源の側にいることができよう?
「おい、どうしたんだ?」
 唐突に声が降ってきて、お民はハッと我返る。
 いつのまにか源治が隣に並んで立ってた。
 川面に視線を戻すと、緑の小さな蛙は既消えていた。
「最近、元気がないな。どこか具合でも悪のか?」
 源治が気遣わしげに訊ねてくる。
 お民は微笑んだ。
「ううん、何でもない」
「何だかな、お前がそうしおらしいっていか殊勝だと、こっちまで調子が狂っちまう」 源治が朗らかな声音で言う。
「何ですって、失礼ねえ」
 お民も調子を合わせて言い返すが、これ源治がお民の気を引き立てようと、わざとっているのだと判っている。
 今日は、花ふくは休みだ。主人の岩次が所のご隠居仲間数人と今朝からお伊勢参り出かけているため、臨時休業である。
 脚腰の弱い女房のおしまは一人で留守番が、主に料理を作るのは岩次なので、これ仕方ない。
「ごめんなさい、そろそろ、お昼にしなきいけませんね」
 源治の方も今日は、仕事場となる普請場近くで昼は恋女房の待つ徳平店へと帰ってたのである。
 もっとも、
―良いなぁ。別嬪の嫁さんが手料理こしらて待ってくれるなんて、羨ましい限りだぜ。―あんなきれいで働き者のかみさんなら、だって、いそいそと帰るよ。
―そんなら、お前も早く嫁を貰えよ、五百(いお)吉(きち)よ。
 と、大工の棟梁と若い左官にさんざん冷かされて帰ってきた源治であった。
「いや、そう急がなくても良い」
「でも、早く仕事場に戻らなきゃいけないしょ」
「まぁ、な。それよりも、お民。お前、俺本当に隠し事なんて、してねえか」
「え―」
 ドキリと心臓が跳ねた。
 源治の真摯な瞳がこちらを見つめている。 お民は思わずその視線を受け止めきれずうつむいた。
 川面が初夏の陽差しを受けて、きらめいいる。橋のほとりに一本だけ植わった桜のが眩しい。陽光に照らされた葉陰が、地面繊細な透かし模様を描き出している。
 川面を涼やかな風が渡る度に、地面にひがった光の網がちろちろと揺れた。
 いかにも初夏らしい爽やかな光景を眩しに見つめ、お民は小さな声で応える。
「当たり前じゃありませんか。お前さんとの間に隠し事なんて、しっこなし」
「そうか、なら、良いんだ」
 源治が屈託のない声で言い、うーんと声出して伸びをした。
「そろそろ梅雨に入るかな。また雨続きの陶しい日が続くと思うと、ちと気が滅入るな」 源治もまた乱反射する川の面を眼を細め見つめている。
「さて、帰るとするか」
 先に立ち上がり、踵を返した良人の背がの時、お民には何故かひどく遠く感じられた。「―ねえ、お前さん」
 こんなに近くにいるのに、あの人の背中遠い。
 お民は焦りにも似た気持ちを憶え、狼狽た。
 今、呼び止めねば、源治が永遠に手の届ない遠い場所に行ってしまうようで。
「ん、どうした?」
 源治が首だけねじ曲げた恰好で振り返た。
「ごめんなさい、何でもありません」
 いつもと変わらぬ穏やかな良人の表情にお民は泣きたくなった。
「変な奴だな」
 源治は笑うと、先に立って歩き始め、おも慌ててその後を追った。
 
 ―お民の姿がかき消すように見えなくなたのは、その日の中のことであった―。

 昼下がり、川面で短いやりとりを交わしその日。源治は夕刻になって、いつもより少し早めに徳平店に帰ってきた。
「帰ったぞ」
 声高に叫んで勢いよく腰高を開けたのまは良かったが、狭い家の中はがらんとしてお民の姿はなかった。その刹那、源治は厭胸騒ぎを感じた。
 いつもなら、源治が仕事から帰ってくる刻に出かけることなぞない。すすぎの水を斐甲斐しく用意して亭主の帰りを待つよな、そんな女なのだ。
 こんな時間に出かけたこと自体が不自然も思えたが、幾ら何でも、幼児ではあるまし、一人で出かけて迷子になるはずもない大方、近所に買い物にでも出かけたかと思い自分で脚をすすぎ、畳に上がった。
 しかし、幾ら待っても、お民は帰ってこい。一刻が経ち、流石に源治も焦った。
 こんなときは、いやでも三月前の事件が裡をよぎる。よもやまた石澤嘉門に連れ去れたかと危惧するが、聡いお民のことだ、度も同じことになるとは思えない。十分に心して行動しているだろう。
 それでも、嘉門に拉致されたという可能も棄てきれない。檻の中の熊のように所在げにうろうろと狭い家の中を往復した挙句、源治はお民が行きそうな場所を一つ、い出した。
 花ふく、だ―。